2009年8月29日 (土)

「20世紀少年 -最終章-ぼくらの旗」

※ばれます。

前作は木南晴夏演じる小泉響子の印象が強すぎて、映画全体のことをよく覚えていないほどだったが、面白かったのは間違いない。そして最終章となる本作では、原作と異なる展開が用意されるという。指折り数えて初日を待ち望んでいた。

観終わってみると、確かに主要なエピソードの描き方など、原作と異なる部分は多い。しかし、大筋は同じである。そして、ラストシーンについても、ある意味で原作と同じ、と言ってよいのではないかと思う。

漫画のラストは、「21世紀最大の肩透かし」と言えるほど、意表を突いたものだった。それは計算されたもので、あのスッカスカの終わり方をしたがゆえに、読者は多くのことを考え、あるいは議論することができた。

だが、映画でそれができるか、といえば、まあ不可能ではないだろうが、やはり難しい。学校の教科書を引っ張り出すようで申し訳ないが、かつてマーシャル・マクルーハンは「メディア論」の中で、「冷たいメディア」と「熱いメディア」という表現を用いた。新聞のように、情報量が限定され、受け手の想像や考察の余地が大きいメディアは「冷たいメディア」であり、映画やテレビのように、情報の密度が濃く、受け手にそのまま伝わるメディアは「熱いメディア」であるとした。この軸を用いて考えれば、漫画は映画より確実に「冷たい」。もし、そのラストを映画でそのまま再現したとしたらどうだろう。観客は、ただガッカリして帰る結果に終わるのではないか。だから、堤幸彦監督は、あえてこの部分を温めて出すことにしたのだろう。熱い料理の味を壊さないように。

これによって、より映画らしい終わり方になった。なのに、観終わった後の印象は、原作を読み終えたときとほとんど変わらない。そしてそこには、ストーリーへの思いだけでなく、漫画同様、長い時間をかけてラストシーンにたどり着いた作品への、尊敬と、そして愛着が含まれている。3部作構成という壮大な計画も、原作の味わいを伝えるのに貢献したわけだ。

自分としては、ひょっとして映画「デスノート」のように、原作と全く異なる終わり方を迎えるのではないかと期待していたフシもあったが、その期待は裏切られた。でも全く失望感はない。この終わり方でいい。いや、この終わり方でよかった。心からそう感じている。

さて、自分にとってはもはやこの3部作の中心は小泉響子である。本来、この最終章をカバーする原作の中では、小泉響子の出番はほとんどない。だが監督もきっと木南晴夏を気に入ったのに違いなく、全編にわたりちょこちょこと顔を出してくれている。これは嬉しかった。そういえば、第二章の公開後、堤監督が演出した朗読劇にも木南は出演していた。白状すると、そのチケットを俺は買っていた。体調悪くなって行けなかったのをとても後悔している。舞台志向があるらしいので、いつかきっとステージで観たい女優さんだ。

女優、といえば、今回序盤でサナエを福田麻由子が演じている。これがまた、小泉響子並みに原作の雰囲気とソックリで驚いた。これは恐らく彼女の演技力のなせる技だと思う。いくつかの映画でその芸達者ぶりには感心していたが、その力量はすさまじいものがある。今後の活躍が楽しみだ。

この日、レイトショーにもかかわらず、劇場はほぼ満員だった。地方のシネコンでレイトショーが一杯になる、というのは非常に珍しい。日本映画の歴史に残る三部作になったことは間違いないだろう。とりあえず、俺は発売になったばかりの第二章のDVDを買って、小泉響子を堪能しようと思う。

「20世紀少年」公式サイト
http://www.20thboys.com/

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2009年6月27日 (土)

映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」

でもすいません、逃げます。

これほどの圧倒的な作品について、感想めいたものを述べられるほど俺は自信家じゃない。そして、それだけの知識も分析力も表現力もない。全然足りない。俺は今まで何をやってきたんだ、というぐらい、無力感を痛切に感じる。ただただ、すごかった。面白かった。楽しかった。そんなコドモみたいな言葉しか出ない。それが恥ずかしくて、結局沈黙するしかない。

「LCLの中」

途中、かなり救いのない展開にもなるが、この映画を観ている間、自分は妙な心地よさを感じていた。劇中、碇シンジがエントリープラグの中にいるとなぜか落ち着く、と口にするが、まさにその感覚だ。なぜかと言うと、ここには庵野秀明総監督が幼少のころから体験してきた、昭和40年代から平成20年代までのありとあらゆるアニメーションや特撮その他のポップカルチャーが生み出してきた文脈・文法を、これでもかとばかりに詰め込んでいるからだ。さながら日本オタク文化のアカシック・レコードである。もちろんそれらを知らなくてもこの映画を楽しむのに何の支障もないし、自分も2~3割ぐらいしか分かってないと思う。しかし、多少なりとも分かっている身にとっては、感動や興奮よりも、どこかホームタウンにいるような安心感が先に立つ。LCLの満たされたエントリープラグの中にいるように、これまで自分が愛し、自分を育んできたものに包みこまれているようだ。

「ありがとう」

いま、とにかく自分の中にあるのは感謝の言葉だ。もちろん、庵野総監督を始め、この作品を生み出してくれたスタッフ・キャストへの感謝もある。が、それだけじゃない。この日本に生まれてきたこと、そしてこの時代を生きられたことへの感謝。海外でも注目されることは間違いないだろうし、エヴァンゲリオンが今後歴史に残るものになることも確実だ。だがやはりこの映画を一番楽しめるのはこの国で、この時代を生きている自分たちにほかならない。だから本当に感謝したい。

「ポップカルチャーの域を超え、神話に近い存在に」

この「新劇場版」がエヴァの作りなおしにとどまらないことは、今回の「破」を見てみんなが納得したことだろう。庵野総監督らは、日本の40年間のポップカルチャーの集大成を作ろうとしているのだ。そこにできるものは、もはやポップカルチャーではないだろう。ジョージ・ルーカスがスター・ウォーズを「新たな神話を作る」としているのと同じレベルに立っている。今年、来年にはすぐに出来ないであろう続編が今から楽しみになるのも、スター・ウォーズと同様である。

とにもかくにも、エヴァを見たことがある人ならすぐに劇場に直行、見たことがない人はテレビシリーズと「序」を復習した上で劇場へ行くべし。日本の誇るエンターテインメントが、そこにある。

新キャラクターの真希波・マリ・イラストリアス。坂本真綾って偉大だわ

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」公式ウェブサイト
http://www.evangelion.co.jp/index.html

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2009年4月18日 (土)

映画版「ひぐらしのなく頃に 誓」公開初日舞台あいさつ

(映画の内容少しバレます)

作年公開された映画「ひぐらしのく頃に」実写版の続編となる「誓」が公開になった。前回、初日の舞台あいさつを見たので、今回もひとつ見てやろうじゃないか、と早々に前売り指定券をゲット。目当てが小野恵令奈であることは今さら言うまでもない。

今年は池袋のシネマサンシャインではなく、渋谷のシアターTSUTAYAに参戦。映画ファンにはユーロスペースのビル、といったほうが分かりやすいか。もっともユーロスペースというと移転前の場所のほうが馴染みがあるかも。その旧ユーロスペースでは昨年「魁!!男塾」の舞台あいさつを見たものだ。

今回こちらにしたのは、座席が指定できたから。発売日の発売時刻ジャストにログインしたところ、前から2列目の席を購入できた。昨年と同じような並びになるだろう、と予想し、押えたのは下手側の通路席だ。

だが、よく考えたらこの席で映画も観なくてはいけないわけで。そうなると前から2列目ってどうなのよ、と思ったが意外に見やすくてよかった。

さて映画本編の上映。基本7作のパラレル・ワールドと1作の前日譚で構成されるサウンドノベル「ひぐらしのく頃に」。前作の映画はその1作目である「鬼隠し編」をベースにしていたが、今回の原作は「罪滅ぼし編」だ。

この罪滅ぼし編のひとつの特徴は、竜宮レナが罪を犯すという点だ。映画でものっけからレナは暗い表情で登場し、ほぼ全編に渡って「かあいいモード」は封印され、イッちゃってる演技が続く。もっとも映画ではもともとあんまりかあいいモードは描写されていない。

そのレナに前作と同じ松山愛里。原作の雰囲気とはだいぶ隔たりがあり、前作ではかなりの違和感もあったが、今回の狂ったレナはなかなかの熱演で心に響いた。キャスティングの際に、「嘘だ!」以降の演技を計算して起用したのだろうか。

レナ以外も、主要キャストはほぼ前作と同じ。なのでてっきり2作同時に作ったのかと思っていたら、そうではなくきちんと前作が公開されてから撮影したのだという。園崎魅音の飛鳥凛も良かった。「罪滅ぼし」編の魅音は、どちらかといと強さよりも弱さが印象的だ。まあ双子の妹である園崎詩音との関係を考えれば基本的に魅音というキャラクターは弱い存在なのだけれど。そして今回、それとは紹介されていないがちょっとだけ詩音も登場している。無類の詩音好きとしては本作一番の見所だ。

古手梨花のあいか、北条沙都子の我らがえれぴょんも、依然出番は少ないが、前作よりもキャラクターの色を出せて、それぞれ印象的な演技ができていたのではないかと思う。えれの影のある表情にぐっとくるのは俺だけではあるまい。

唯一、主要キャラクターの中で俳優が変わった、大石蔵人の大杉蓮。前作の杉本哲太はどうしても若いイメージがあるのと、脚本上人の良さを前面に出した設定だったのとで、ある意味レナや魅音よりも違和感があった。好きだけどね。しかし今回の蔵人はかなり原作のイメージに近い。大杉の演技はもちろん一級品で、映画全体をうまく引き締めている。

作品としてどうかというと、前作と同じように「うまく作っているな」という印象だ。世界観の説明をすっとばしている分、展開もテンポがよく、飽きさせない。

ただこれも前作同様「部活」のシーンがないため、主人公たちの絆の深さを描ききれていないきらいはある。オカルト的な恐怖感をあおるよりも、何やら巨大な陰謀が動いている、というところをにおわせるあたりは原作の雰囲気を踏襲している。

また原作の持っている「美少女ゲーム」という側面のかわりに、ここかしこにさりげなく挿入されるエロチックな映像によって風味づけられているのがミソだ。

雛見沢村の美しい自然もよく再現できていたと思う。特に今回は夕日の使い方が印象的で、クライマックスの屋根の上での格闘戦は実に美しかった。まあ戦っていたのはどちらもスタントマンだが。また、夕映えの中、台所で夕餉の支度をする梨花と沙都子の姿は、絵画のような完成度の高い映像で息を呑んだ。

できればこのキャスト、スタッフでもう1作できないかな、と思う。昨年は原作の「鬼隠し編」しかプレーしていないだけのライトなファンだったが、今年は原作は全編プレー済み、アニメ版も全部おさえたそれなりのファンとして観たわけだが、そう感じることができた。実写化、映像化はどうしても抵抗がある、という人にはお勧めしないが、それなりに魅力的な映画に仕上がったのではないか。

上映終了後の舞台あいさつ。監督の及川中、原作の竜騎士07、前原圭一役の前田公輝、松山愛里、飛鳥凛、あいか、えれが登場。狙いどおり、えれは自分の席から至近の位置だ。

発言要旨は次のとおり。

及川「感想は人それぞれだと思うが、『ひぐらしのく頃に』という壮大な原作があり、それを基に映画づくりをせいいっぱい頑張ったということは分かっていただけると確信しています。皆さんが観に来てくれたことは本当に幸せ。心から感謝しています」

前田「自分はどちらかというと人を『ドンマイ』と励ますタイプ。今回の圭一は自分を犠牲にして人のために戦うという役どころで、自分にリンクするものがありました。友達に対する熱い気持ち、親友への信頼は自分に近いと感じています」

松山「(今回のレナ役は)すごく難しかった。トーンの落ちた状態から入っていくので、そこからどう変化をつけていけばいいのか分かりませんでした。撮影現場では、みんなとわいわいさわぐような楽しいシーンがなかったので寂しかったけれど、その分役に入り込めたのかな。最後の屋根のシーンはとても印象的でした」

飛鳥「(続編が決まって)とても楽しみでした。前回も楽しかったし、たくさんのことを吸収でき、役に対する気持ちも沸いてきた。新しい『ひぐらし』で、新しい自分をどう見つけられるだろう、という気持ちで撮影に臨みました。撮影期間の約1カ月、いろんなことがありました。前作よりも、自然な気持ちを表現するシーンが多くて難しいと感じましたね、普段の自分が持っているはずの感情なのに。でもゴミ山のシーンではレナへの熱い気持ちが自然に出てきて、本当に号泣してしまいました。こういう風に気持ちを作るのか、と発見することができました」

あいか「このスタッフ、キャストの方々とまた仕事ができた、ということで、感謝の気持ちでいっぱい。演じるときは監督に言われて、素の自分の『謎っぽさ』をありのままに出して頑張りました」

小野「(最初、マイクがなくてエアーマイク。飛鳥が気づいてマイクを渡す)フー、何度目でも(舞台あいさつは)緊張するものですね。えっと何でしたっけ。AKB?はい、AKB48です。(質問を聞き直す)はい、前作が公開されてすぐに、メンバーのみんなとは続編やりたいね、って話をしてて、そのためには大ヒットしてくれないと、って願ってたんですけど、大ヒット?になったんですよね。そのおかげで続編ができました。1作目を自分で見たとき、悔いがいっぱいあったんですよ。もっとカツゼツがよければ、とか、もっと沙都子っぽくできたんじゃないか、とか。2作目では必ずこうしよう、と決めていて、それができたんじゃないかと……60%ぐらい(笑)。次は恋人でも友達でも会社の同僚でも、一緒に誘って来ていただいて、そのときはそこに注目して欲しいです」

竜騎士07「当初、続編の話はなかったので、最初聞いたときにはびっくりしました。それで聞いたんですよ『採算は取れるんですか?それならいいんですけど』って。そしたら『大丈夫です』って言っていただいて。嬉しかったですね」

冷静に考えると、メモ取っててえれをあんまり見ていられなかったのはやや失敗だったと思う。

200904192312000

いろいろ買っちゃったよ

「ひぐらしのく頃に 誓」公式ウェブサイト
http://www.higurashi-movie.com/

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2009年3月21日 (土)

映画「ワルキューレ」

最近はすっかりサイエントロジーの人というイメージがついてしまっているトム・クルーズ。しかし彼の演技力は本当に素晴らしいと思う。

そのトム・クルーズが、実際にあったヒトラー暗殺計画の首謀者を演じる。そして監督は「ユージュアル・サスペクツ」のブライアン・シンガー。これは期待しないほうが無理というものだろう。

そしてその期待通り、久しぶりに骨のある男の映画を観た、という確かな手ごたえを感じさせてくれる映画だった。実話に基づいているだけに、過度にエピソードを盛り込むことは避け、この世紀の暗殺計画について、その発端から終了までを目一杯の緊迫感で描いている。

この映画には、余計な味付けのない、レアのステーキを一気に食らう快感がある。しかしそれは味付けをしていないのではなく、素材のうまみを、最小限の調味料だけで最大限に引き出しているのだ。だから自分もつべこべ言わない。

ただ一言、男なら迷わず見るべき傑作。

Valkyrie

映画「ワルキューレ」公式サイト

http://www.valkyrie-movie.net/

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映画「釣りキチ三平」

ドラゴンボールだ、ヤッターマンだと騒いでいるが、この春、「実写化」で何といっても注目なのはこの「釣りキチ三平」だろう。

原作が好きということもあるが、最大のポイントは一平じいさんを渡瀬恒彦が演じる、という点だ。

原作の三平一平は、その風貌から一見好々爺のようだが、実はなかなかダンディーで、ちょっとお茶目な側面もあるという魅力的な人物である。そして三平に向けるまなざしは優しいが、家族を次々に亡くした三平に対し、決して人の同情に甘えるなと諭す厳しさもある。そして全国の釣り師があこがれる和竿づくりの名人。とにかく、どこまでもカッコいいキャラクターなのだ。

そのイメージからすれば、渡瀬恒彦というキャスティングはばっちりだ。「タクシードライバーの推理日誌」の夜明日出夫も、最近はすっかりいいおじさんになってしまったが、シリーズ開始当初は、常に美女につきまとわれる色男だった。渡瀬なら、厳しさ、優しさ、チャーミングさを全て表現できるだろう。そう期待していた。

そしてスクリーンの三平一平は、全くもって期待どおりだった。冒頭から味のある表情と印象的なセリフで、見事に一平名人が実体化している。脚本、監督、俳優すべてがこの役に対しぶれのない共通認識を持っているからこそできた業だろう。

さて、この映画のテーマは原作と同じ、自然の中でのびやかに生きることの素晴らしさ。そして三平という決して幸福な星のもとに生まれたわけではないが、常に明るく前向きに生きる少年と、それを見守る一平という二人の人物の魅力に誘われてかかわってくる人物たちの人間模様を描くことだ。

全編の秋田ロケは、そのテーマの前半部分を理屈ぬきに実現した。そして後半については、やや原作よりも三平と一平、そして鮎川魚紳をやや子供っぽく描き、この「3人の子供」と、対極的な存在である愛子というオリジナルキャラクターによって、より鮮明に描き出していた。

ストーリーとしては、他愛のない、と言っていいほどシンプルなものだ。しかし、脚本、演出、俳優の演技が一体となって作り出した完成度の高さは、なんともいえない心地よさを観る者に与えてくれる。昨年「おくりびと」を観たときにも書いたが、滝田洋二郎という監督は特にお気に入りというわけではないのに、常にその作品を劇場で観てしまう、そしてそれなりに満足感を与えてくれる、フシギな縁のある監督さんである。

Sanpei

映画「釣りキチ三平」公式サイト

http://www.san-pei.com/

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映画「ヤッターマン」

かなり早い段階からプロモーションがスタートし、もはや食傷気味になってきたところでやっと公開された実写版ヤッターマン。

タイムボカンシリーズは好きだけど、特段ヤッターマンに思い入れもないので当初はさほど興味はなかったが、深田恭子のドロンジョというナイスなキャスティングが発表されてからは大いに興味がわいていた。恭子りんのエッチなコスプレ姿が観られるというだけで、劇場に足を運ぶ理由は十分すぎるほどだ。そこに、「櫻の園―さくらのその―」の初日舞台あいさつで見てだいぶ気に入っている福田沙紀がヤッターマン2号というおまけつきだ。こりゃあ楽しみである。

その恭子りんのコスプレは期待以上の出来で、ドロンジョ姿もいいが、他にもいろんな衣装で楽しませてくれる。そして胸の谷間は常に全開。そして恭子りんだけでなく、三池崇史監督は観客のツボをよくお分かりのようで、福田沙紀や、オリジナルキャラクターの翔子を演じる岡本杏理にも、微妙にエロな演出をほどこしている。こりゃあ実に教育によくない映画だ。

なので十分に満足した。「天才ドロンボー」の恭子りんのふしぎなおどりと調子を外した歌声だけでも、この映画は観る価値がある。

実際のところ、なかなか面白かった。クライマックスの戦闘シーンがちょっとダレた以外はテンポもいい。本編の演技はかなりアレで、特に福田沙紀は相変わらずやる気が感じられず(だがそこがいい)、アクションシーンも全体的に真剣さがなくユルユルだけれど、CGの出来の良さで救われている感じだ。実写版ドラゴンボールのエントリーで「本編の出来の悪さをポストプロダクションで救うことはできない」と言ったけれど、さっそくその認識を改めなくてはいけないようだ。

Ytm

映画「ヤッターマン」公式サイト

http://www.yatterman-movie.com/

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2009年3月15日 (日)

残念映画「DRAGONBALL EVOLUTION」

とっても残念な映画、実写版ドラゴンボール。

でもそれは、世間で言われるように「原作と違いすぎ」「馬鹿映画を超えたトンデモ映画」といった理由ではない。

自分が感じているのは、この映画はうまく作れば大傑作、とはいかなくても、自分の大好きな映画にはなったのに――という残念さだ。

もともと自分は漫画や小説を映像化した場合、それは違う作品として見ることにしている。メディア・イズ・メッセージ。メディアが変わればコンテンツが変わるのは至極当たり前のことだ。

だからといって、原作に忠実たらんとする姿勢を否定するわけではない。同じ世界観を別のメディアで再現する、というのは、それはそれで新しい価値を作り出す行為だからだ。

本作は、事前に「別物として見るべき」という噂が先行していた。だが実際に見てみると、この映画は驚くほどドラゴンボールである。

原作初期の、ドラゴンボール争奪戦を面白おかしく描く、という雰囲気がとてもよく出ている。登場人物も、チョウ・ユンファ演じる武天老師は強さとスケベさが同居したハマリ役だし、ブルマやヤムチャも漫画のイメージをうまく実体化していたと思う。チチは原作の雰囲気とはずいぶん違うが、悟空に対し一歩も引かない強い女性、という面はまさしくチチだ。悟空はもっと原作の素朴な感じが欲しかった気もするが、米国人が吹き替え版で見たアニメ版の悟空は、意外とあんな雰囲気なのかもしれない。

時代錯誤の日本や中国のような街や人も出てくるが、もともとドラゴンボールの世界は無国籍的、無時代感覚的なのだから、違和感はない。悟空が高校に通っているのは変だろう、という人もいるだろうが、悟空の息子・悟飯はオレンジスターハイスクールに通っているから、学校がドラゴンボールの世界観と全く相容れないわけではない。

原作序盤の様々なエピソードを、87分という短い時間にまとめあげるためにだいぶ無理はしているが、破綻しているとまでは言い切れない。むしろ、そこはうまく構成したと言える。

なのに、この映画は面白くなかった。

コレといった明確な理由があるわけではない。映画は総合性の芸術だし、数百人、時には数千人という人が協力して作り上げるものだ。自然にうまくいく確率のほうが低い。あえて原因を探ろうとすると、脚本はエピソードを詰め込むことには成功したが、セリフ回しやシーンの展開にはかなり荒削りなところがあり、洗練されていない。演出は、ポストプロダクトのCGの使い方は非常にうまいが、肝心の本編でのやりとりが迫力に欠けている。スター・ウォーズのエピソード1~3のように、CGの中に人間の演技をはめこんだ映画ならまだしも、やはり生身の演技の出来の悪さをCGでごまかすことはできないのだと実感した。

一時、この映画はクオリティーが低いためお蔵入りになるのではないかと噂された。想像するに、メキシコで行われた本編ロケが、うまくいかなかったのではないか。脚本家も監督もその実力を十分に発揮することができずに終わってしまったように思う。狙いはいいのに、全てが中途半端に終わっているからだ。制作予算や期間も、現場で自由にできたのはかなり限られたものだったのではないだろうか。だとすれば、それはプロジェクトマネジメントの失敗だ。

もし、狙い通りのものになれば、原作の雰囲気を押えつつも意外性を持った、観終わったあとに何も残らない見事な馬鹿映画になったかもしれない。連載開始から最終回までジャンプで読み続けた原作ファンであり、馬鹿映画の大好きな自分にとって、これ以上の幸せはない。

だからこの映画の出来の悪さは本当に残念だ。日本人キャスト・スタッフで作り直せ、という声も上がっているようだが、自分はむしろ同じスタッフ、同じキャストで、失敗した点をリカバーしてもう一度作りなおして欲しいぐらいだ。

日本人が映画化すれば違うものになった、というのは確かにそうだろう。しかし、日本映画界はそのチャレンジをしなかった。だからハリウッドがやったのだ。文句を言える筋合いではない。残念というなら、その日本映画界の現状こそ残念というべきだ。自分たち観客ももっと積極的に日本映画に足を運び、意見を述べ、大いに盛り上げていかなくてはいけないだろう。

Dbe

この映画について「ベスト・キッド」っぽい、という意見があるが、同意だ。どうしてもドラゴンボールとして観ることに抵抗がある人は、ベスト・キッド5として鑑賞したらどうか。悟飯(初代)と悟空の修行はまさしくノリユキ・パット・モリタとラルフ・マッチオを思い出させるし、チチ役のジェイミー・チャンは「ベスト・キッド2」のタムリン・トミタを彷彿とさせる。まあこの映画に抵抗のある人は、ベスト・キッドシリーズにも抵抗あるだろうからダメか。

「DRAGONBALL EVOLUTION」公式サイト
http://movies.foxjapan.com/dragonball/

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2009年2月14日 (土)

映画「20世紀少年-第二章-最後の希望」小泉響子まつり開催中

この週末は、14日のチームBバレンタイン公演も、15日のSKE48「手をつなぎながら」初日公演も抽選に外れてしまい、いきおい何もすることがなくなった。これでいいのか俺の人生。仕方ないので映画でも観てやろうと「20世紀少年第二章」に足を運ぶ。

エントリーは上げてなかったけど、第1章もちゃんと観ている。原作も読破した。原作を読んだのは、第一章の映画を観たあとだ。連載時、えらく面白いと聞いて、単行本を買おうと思ったが、完結してから一気に読んだほうがよさそうだと判断。完結したのでサア読もうと思ったが、映画になるというのでどっちを先にするか悩み、結局映画をまず観て、それから漫画を読んだ。結果的にこれは正解だったようだ。第1章は、おおむね原作の1巻~5巻を、そして今回の第二章は5巻~16巻を描いている。もし先に原作を読んでいたら前回の第一章は展開が遅くてじれったくなってしまっただろうし、原作を読んでいなかったら今回の第二章はテンポが速すぎて追い切れなかったと思う。

この映画化では、比較的原作を忠実に映像化することに主眼を置いている。必ずしも原作とその映像化が同じである必要はない、というスタンスの自分だが、忠実な映像化というのもそれはそれで面白さを感じる。

特に、誰がこの役を演じるか、というのはそのダイゴ味のひとつであり、この作品はその期待に十分に応えるキャスティングをしてくれている。前回はまだ原作を読んでいなかったから、自分は今回からやっとその楽しみを味わえることになる。第二章から登場する重要なキャラクターといえば、まずサダキヨだ。それを劇場で確認したいと思い、この映画に関する情報は意図的にシャットダウンしていたおかげでずっとそのキャストを知らずに来たのだが、やっとこれを観る、というその日の昼間、うっかり「王様のブランチ」を観ていてそれがユースケ・サンタマリアだとバレてしまった。「少年メリケンサック」のプロモだと思って油断していたのがいけなかった。

しかし、実はそれ以上にどんな人が演じるのか興味津々だったキャラクターがいる。小泉響子だ。普通の女子高生だったのに、なぜか「ともだち」とレジスタンス勢力の争いにおいて重要な存在になってしまった、典型的な巻き込まれ型のヒロイン。実は彼女は、よく考えると主人公(少なくとも、ケンジが出ていない部分では)である遠藤カンナの分身といっていい。物理的に主人公が首を突っ込めないところに代わりに巻き込まれたり、カンナの表現しきれない感情を体現している存在でもある。ケンジという主役の不在を、2人で埋めているという構図は、さながら「デスノート」でLの不在をメロとニアが埋めているようなものだ。

そして、神がかった存在であるカンナに比べ、響子は実に人間らしく、その分大いに魅力的だ。このキャラクターをどんな人が演じるのかが自分にとってのこの映画に対する最大の興味だったといっても過言ではない。

そして、教室のシーンで登場した小泉響子。スクリーンに映った瞬間、これはヒットだと膝を打った。漫画から飛び出てきたような、そのまんまの小泉響子である。これはびっくりした。どこでこんな人材を見つけてきたのだろう。物語が進んでいっても、声、表情、全身から出る雰囲気、見れば見るほど小泉響子にソックリだ。もう「来ないねえ・・・ボーリングブーム!!」と言っている姿が目に浮かぶようだ。絶対あのシーンやっておくれよ、堤監督。

演じていたのは木南晴夏。自分はその名前を知らなかったが、ちょこちょこ見かけてはいたようだ。現在は「銭ゲバ」に出演中。24歳で、それなりにキャリアも積んでいる。実際、彼女の演技はなかなかのものだった。まあ小泉は「悪魔の毒々モンスター東京へ行く」の関根勤のように、たいていはビックリしている役なので、さほど演技の幅を見せる機会はないが、単に漫画に似ているというだけでなく、ひとつひとつの所作にメリハリがあって印象深い。

そんなわけで、ついつい小泉響子にばかり目が行ってしまったのだが、そういう人は多いのではないかと思う。ネット上でも彼女のソックリさ加減についてはだいぶ話題になっているようだ。

そのあおりを受けてしまっているのが、平愛梨が熱演した遠藤カンナだ。彼女のカンナ役については賛否両論あるようだが、自分は良かったと思う。もともと、浦沢直樹が本気で描いた女の子は、誰にも演じることなど不可能なのだ。それは、浅香唯の「YAWARA!」が不調に終わったことでも証明されている。だから、原作のイメージと若干異なっても、目に力があり、存在感のある平の起用は正解だったと思う。そして彼女の熱演は高く評価されていい。第三章での「氷の女王」が今から楽しみだ。

気の毒だったのは、ストーリーをかなり圧縮したために、本来主人公の分身として、別々に行動することの多かったカンナと響子が、一緒の場面に出る割合が多くなってしまったことだ。そうなると、原作を読んでいた人の目線は響子に行ってしまう。そして、作品全体としても、だいぶ無理して進行させているぶん、ひとりひとりのキャラクターの見せ場を十分に作ることができず、特にカンナは漫画における圧倒的な存在感を発揮する場面が大幅に削られてしまった。平カンナにはぜひ第三章で存分にその魅力を開花させてほしい。

映画全体としても、十分に面白かった。唯一食い足りない点があるとすれば、少年たちの「万博」への思いが、あまり強烈には伝わってこなかったということだ。子供のころの「万博」の印象は、単なる思い出ではない。限られた期間で終わってしまうからこそ、それは心の中でどんどん大きな存在に成長してしまう。だから「ともだち」が万博を再現しようとする気持ちは、実は痛いほどよく分かる。自分も、もし「何でも叶うから1秒以内に願いごとを言え」といわれたら、つい「つくば万博にもう一度行きたい」と言ってしまうと思う。2秒考える余裕があったら別のことを言うと思うが。

それにしても、第二章を観た感じで、「ともだち」についてはひょっとして第三章で原作とは異なる結論になるのかもしれないと思った。そういえば、この映画化プロジェクトは「20世紀少年」であって「21世紀少年」ではない。そのあたりのサプライズが仕掛けられるかどうか、楽しみである。

しかし、とにもかくにも、この映画は小泉響子である。ひとりの映画の登場人物でここまで心躍ったのは久しぶりだ。今からDVD化が待ち遠しくてしかたがない。

Tomodachi

「20世紀少年」公式サイト
http://www.20thboys.com/

筑波ばんぱくばんざい
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2009年2月 1日 (日)

映画「禅‐ZEN‐」

曹洞宗の開祖、道元の生涯を描いた「禅‐ZEN‐」。中村勘太郎や藤原竜也といった若い俳優がこの地味な映画にどう取り組んでいるのかちょっと興味があり、劇場に足を運んだ。

特に禅宗に造詣が深いわけでもなく、曹洞宗の道元、といわれても日本史の教科書と用語集に書いてある程度の知識しかなかったが、伝えられている著名なエピソードを追う形で綴られる展開のため、予備知識がなくても全く問題はない。そして、禅宗の教えそのもについても、この映画を観れば基本的なことを学ぶことができる。

必要以上にドラマチックに描くわけでもなく、またあえて「普通の悩める若者」として描こうとするのでもなく、また仏教の映画だから多少は説教くさくなっても、それが過剰になることなく、極力ありのままに、その生涯と人物像を伝えようとしている姿勢には好感を持てる。

そして、その制作姿勢はこの映画のテーマにもつながり、それが禅宗の教えをなぞるような格好になっている。

「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」

あたりまえのことを、あるがままに受け入れて生きよ、ということこそが、この映画のテーマである。

本作では、日本の四季おりおりの風景が描きこまれており、それがひとつの魅力にもなっている。しかしその風景は、ことさら雄大なものでもなく、かといって市川崑の「細雪」のような耽美なものでもなく、どちらかというと「男はつらいよ」に出てくるような、普段着姿の日本の原風景だ。宇崎竜童らの手による音楽も、決して前に出すぎずに心に深く沁みる。

観終わった後も、深い感動に胸を揺さぶられるわけではない。ただいい映画を観た、という淡々とした感想のみが残る。観終わったあと「何も残らない」ことがいい映画の条件、というのは、以前何度かエンターテインメントを共に鑑賞した、私の尊敬している人の言葉である。「何も残らない」映画にはこういうタイプの作品もあったのだ。

このように、ほとんど味付けのされていない精進料理のような映画にもかかわらず、観客を飽きさせずに最後までスクリーンに引き付けることに成功しているのは、やはり主役の中村勘太郎の演技に尽きるだろう。淡々と演じているように見えるが、内に秘めた道元の心の強さが確かに伝わってくるその演技は、不思議なまでに目が離せない。

もっとも、精進料理とはいっても最低限の味付けはしてあり、それが業深き象徴として描かれる内田有紀とのエピソードや、藤原竜也演じる北条時頼との邂逅などのシーンだ。この2人の瑞々しい演技が絶妙の調味料になっている。厳しい見方をする人はこれらもいらない、と言うかもしれない。だが、それではもはやエンターテインメントとして成立しなくなってしまい、本当に修行のような映画になってしまう。そのぎりぎりのさじ加減が、監督の力量を示している。

その監督は、かつて問題作を連発したATG作品の中でも、ひときわ印象的な「TATOO<刺青>あり」の高橋伴明。誰もが知っている凄惨な銀行強盗事件を題材にしながら、その強盗のシーンは全くなく、犯人の生涯を追うという、ギラギラした野心あふれる作品を撮った高橋監督も、もう還暦を過ぎた。そのとんがった過去と、深く刻んだ年輪とが、この静かな作品を生み出したのかと思うと感慨深い。

恐らく、テレビやDVDで観ると集中力が持たないと思うので、興味のある人には劇場での鑑賞をお勧めしたい。

Zen

「禅‐ZEN‐」のWEBサイト(音が出ます)
http://www.zen.sh/

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2008年11月 8日 (土)

映画「櫻の園―さくらのその―」初日舞台あいさつ

1990年に著しく高い評価を得た映画「櫻の園」。それを同じ中原俊監督が再度映画化し話題を呼んでいる「櫻の園―さくらのその―」が初日を迎えた。舞台あいさつがあるというので、大島優子(チームK)目当てにマリオンへ足を運ぶ。

1990年、自分はこの映画を新宿の小さな映画館で見ている。当時は自分もフレッシュな大学生だったものだ。舞台はやや保守的な校風の名門女子高・桜華学園の演劇部。創立記念日の恒例行事としてチェーホフの「櫻の園」を上演する日の朝の数時間のみにスポットを当て、その中で部員それぞれの悩みや心情を描いていくという実験的な性格の強い意欲作だった。その印象の鮮烈さは今なお記憶に深く刻み込まれている。

今回の映画は、そのリメイクではない。舞台は同じ桜華学園の演劇部、そして創立記念日にチェーホフの「櫻の園」を上演する少女たちの物語、という設定は同じだが、ストーリーは全く異なる。そして前作の、中原自身が「演劇的な手法」と称する、時間の省略や場所の移動が少ない実験的なアプローチは封印され、ストレートな青春群像劇として生まれ変わった。

しかし、映画の随所に前作を思い出させるセリフや設定、セットや小道具などが登場し、傑作の呼び声高い1990年版「櫻の園」へのオマージュをささげる。そのなぞり方が絶妙で、前作を観た人間にとっては非常に心地よくストーリーが進んでいく。この映画は、結局前作を懐かしむために作られたのか。それならそれで文句はない。

だが後半、ストーリー的には予測できたものの、テイストが突然スポ根風になって愕然とする。まるで前作を否定するかのうような、意表を突く展開だ。

それでも最後は、ふたたび前作の印象的なシーンを思わせる場面が続き、そして前作同様、「櫻の園」の上演前で映画は終わる。

この2008年版「櫻の園」には、1990年版「櫻の園」に対する否定とリスペクトが、共存しているのだ。

中原監督は、なぜそんなことをしたのだろう。

まこと勝手な想像ではあるけれど、中原監督としては前作の評価が高ければ高いほど、こそばゆい感覚があったのではないか。確かに鮮烈ではあったが、前作は映画的な手法を大きく逸脱して作られた。それを評価されるのは、映画人としての矜持を鑑みるに、やや複雑な思いがあったのではないだろうか。「ドカベン」で、八艘飛びでホームを奪い無敗の明訓高校を破った弁慶高校の義経は、その後自分のプレーを「あれは野球じゃない」と悔やんでいたという(「スーパースターズ編」第1巻)。同じような気持ちを中原監督も抱いていたのではないか。

だから、今回は驚くほどの正攻法で、映画的な時間の流れの中で、美しい日本の四季を舞台として、再度同じテーマに取り組んだのだと思う。しかし、前作は決して実験的な手法のみが評価されたのではない。つみきみほや中島ひろ子といった、天才肌の若手女優の演技にも助けられたが、静かに心を打つ珠玉の名場面がぎっしり詰まった密度の濃さが高い評価につながっていったのだ。それらについては、オマージュという形でこの映画の重要な核として残しているのである。

恐らく、本作の出来は、決して前作のような評価を得るものではないだろう。しかし、そんなことは分かりきっている、とばかりに、ベテラン監督が微塵のてらいもなく、決して「天才肌」ではない若手女優とともに取り組んだ青春映画。その姿勢のすがすがしさは、そのまま映画のメッセージとして伝わってくる。

もっとも、前作を観ずにこの映画だけ観たとき、どこまで感動を呼ぶかは自分にはよく分からない。最終的にはこの映画への評価はそこで決まるべきだと思う。

上映後、舞台あいさつが行われ、メインの出演者たちが作品についてコメントした。われらが大島優子は、「この映画をスクリーンで観たとき、桜がとってもきれいだな、と印象に残りました。ぜひそれを思い出しながら、周りのみんなに『櫻の園よかったよ』って伝えてくれたら嬉しいです」と語った。一見ノウテンキに見えるコメントだが、ロケに使われたリアルな桜は、この映画が実験的手法ではなく、正攻法で撮られた映画であることを象徴的に示す重要なアイテムだ。さすが優子、本質を見抜いている。演技の面でも、百面相ともいえる豊かな表情を駆使し、大きな存在感を発揮していた。

舞台あいさつというと、普通は役者と監督がゆるい話をしてなんとなく終わるものだが、この日は演出として、先生役の菊川怜がひとりひとりにこの映画からの「卒業証書」を渡すというイベントがあった。読み上げられるコメントも一人一人異なっておりなかなか感動的で、実はちょっと泣きそうになったのは内緒だ。

映画に登場する制服のレプリカ。53000円。高いなあ、と感じたのは、もし安かったら真剣に購入を検討していただろう、ということだ。

「櫻の園―さくらのその―」WEBサイト
http://www.sakuranosono-movie.jp/

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映画「ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢」

いくらなんでもこの邦題はないだろう、と思ったらやっぱり原題は「EVERY LITTLE STEP」だった。そっちのほうがずっといいのに。マーケティングのために妙な邦題がつくのは珍しくないが、こういうさほどヒットするとは思えない映画にまでなあ…

という愚痴はさておき、ブロードウェーミュージカルの代表作、「コーラスライン」再演のために行われた8カ月に及ぶオーディションの様子をカメラに収めたドキュメンタリー映画を観てきた。

ブロードウェーとハリウッドのもたれあいは最近見るに耐えないが、これはちょっと面白い試みだ。何しろ「コーラスライン」はもともとショーに出演するダンサーたちが悩みや過去を語るバックステージものだ。そのバックステージもののバックステージを描こうというのである。

「コーラスライン」本編で語られるダンサーたちのセリフと、実際のオーディションの風景、さらに「コーラスライン」の生みの親であるマイケル・ベネットが、作品を書くにあたり多くのダンサーたちにインタビューしている様子の録音、という3つの異なる次元のコンテンツがオーバーラップしながら進んでいく。この複雑な構成によって、ドキュメンタリーながら飽きさせない構成になっている。

そうした作品なので、「コーラスライン」の裏側を描く、というよりも、「コーラスライン」をより深く理解するための副読本のような映画になっている。正直、「コーラスライン」を観たことがない人はこの映画を観てもサッパリだろう。だが一度あの舞台を観た人なら、見入ってしまうことうけあいだ。

オーディションの風景そのものもすこぶる面白かった。ショービジネス界で成功するためには整形も厭わないヴァル役を得るために、本当に豊胸手術をしてしまった女優がいたり、シーラ役の候補がシーラ顔負けの強気キャラだったり、コニー役を射止めた日本人・高良結香は、米国に住んでからの年月が浅いということで最初審査員の印象が悪かったり、と本当にコーラスラインそのままのドラマが繰り広げられる。

それにしても、これ観てたらぜひブロードウェーで「コーラスライン」を観たくなってきた。この映画で描かれている再演は先日終了してしまったが、またリバイバルされることを期待したい。

Bwbw

「ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢」WEBサイト
http://www.broadway-movie.jp/

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2008年10月 7日 (火)

映画版「マンマ・ミーア!」試写会

ドナ メリル・ストリープ
ソフィ アマンダ・セイフライド
ターニャ クリスティーン・バランスキー
ロージー ジュリー・ウォルターズ
サム ピアース・ブロスナン
ハリー コリン・ファース
ビル ステラン・スカルスガルド
スカイ ドミニク・クーパー
アリ アッシュリー・リリー
リサ レイチェル・マクドール
ペッパー フィリップ・マイケル

米国では7月に公開された映画版「マンマ・ミーア!」。その時点で日本公開は未定だったので、本気でグアムにでも観に行こうかと思っていたが、来年1月30日の全国公開が決定。まあゆっくり待つか、と思いつつも試写会の「ブロガー招待」(ニフティ)に応募したところ、ありがたいことに当選となった。人間、早まったことはしないが吉という教訓だ。

試写会といってもかなり多くの人を招待しており、会場の日劇1(マリオン11階)はほぼ満員。初日のような熱気の中での上映となった。

この映画の感想を記すにあたって、ひとつ断っておきたいのは、自分はどっぷり舞台のマンマ・ミーア!に浸かってしまっているので、舞台を観ずに映画を観ても楽しめるかどうか、という視線では評価できないということだ。あくまで、ミュージカルを観た経験のある人にとってどうか、を考えてみたい。

先に言ってしまおう。

舞台の印象を壊したくないから映画版は見ない、という人。安心して劇場に足を運んでください。あなたの思い出が壊れることは決してありません。保障はしないけど。

舞台に限らず、原作があってそれを映像化するのは本当に難しい。もともとメディアが異なれば表現が変わるのは当然なのに、原作のイメージを愛する人からは必ず反発をくらうからだ。

しかし今回の映画は違う。親父ギャグで申し訳ないけどそのまんまのマンマ・ミーアだ。

それもそのはず、この映画の監督・脚本・制作は、舞台版と同じ。フィリダ・ロイド、キャサリン・ジョンソン、ジュディ・クレーマーの女性トリオだ。

これは思い切った決断である。何しろ、この3人は舞台のプロフェッショナルで、映画については素人同然だったというのだから。だがその賭けはこの映画に関する限り、大成功を収めたと言えるだろう。作品の魅力と雰囲気をそのままにスクリーンに展開できた。

だからといって、この映画は舞台をそのまま映像化したようなものか、というとそれは全く違う。舞台をそのまま映像にしてもそれは「舞台中継」でしかない。また、スタジオに移して多少カメラワークを工夫したとしても、それが面白いものにならないことは「キャッツ」のビデオ版が証明している。

では、何がどう違うのか。この映画には、舞台にはない、強烈な要素が加わっている。

それは、絵画のように美しいエーゲ海と、輝く太陽が織り成す最高の背景だ。「太陽と海の教室」はきついドラマだったが(それでも全話見た)、この映画は「太陽と海のスタジオ」で繰り広げられるのだ。

この背景は圧倒的で、エーゲ海でロケをして「マンマ・ミーア!」の映画を作ったというよりも、「マンマ・ミーア!」とエーゲ海が競演を果たした、という雰囲気ですらある。ちょっと例えが分かりにくいかもしれないけれど、1973年制作の映画版「ジーザス・クライスト=スーパースター」における砂漠のような存在感である。

その結果、舞台版は、最初と最後に登場する「月」がそのまま作品のイメージにつながっているのに対し、映画版は「太陽」の物語になっている。月が起こした優しい奇跡から、太陽に愛された情熱的なドラマへと変貌を遂げた。しかし本質は何も変わることがない。

当然ながら、舞台にはあっても、映画では失われているものもある。それは、脚本の完成度だ。

マンマ・ミーア!の魅力は、ABBAの歌と、それを見事に物語に当てはめて、曲の世界観を再現しているところにあることは言うまでもない。しかし、自分はそれ以上に、この作品の脚本の完成度の高さを気に入っている。「母世代」3人(ドナ、ターニャ、ロージー)と、「父世代」3人(サム、ビル、ハリー)と、「娘世代」3人(ソフィ、アリ、リサ)と、「息子世代」3人(スカイ、エディ、ペッパー)という、きれいに4象限に分かれた3人ずつが、絶妙の間合いで交錯しているその構造が見事なのである。

しかし、この映画では、そのきれいな4象限は失われている。ペッパーは登場するが、セリフはぐっと少なめ(でも印象はかなり強烈)。エディに至ってはセリフすらない。なので、誰が演じていたのかすら分からない(アリやリサ、ペッパーも配布されたリーフレットには名前が出ていなかったが、Wikipediaに載っていたので確認できた)。

もっとも、映画は舞台に比べ、完成度よりも総合性を重んじる表現手法だと思う。だから、脚本の完成度をあえて低くしたことも納得だ。まして、同じ人間が書いている脚本である。文句を言う筋合いはない。

とにかく、観ていてつい舞台と同じ調子で手拍子をしそうになったりするほど、どこまでも「マンマ・ミーア!」である。エンドロールは期待通りの展開で、思わず立ち上がりたくなった。海外ならともかく、日本の映画館ではそれはやめておいたほうがいいだろうが、逆に「手拍子、スタンディングOK」の上映会があったら楽しいかもしれない。「ロッキー・ホラーショー」で、パフォーマンスOKの上映日を設けたりするのと同じである。ぜひ検討してくれると嬉しい。

以上が、あまり具体的なところに踏み込まない大雑把な感想である。

Main

ここからは、自分のメモとして、ややネタばれになる具体的なことを少しだけ書いておく。なので、映画の出来が気になって眠れないという人以外は、読まないほうがいいと思います。

続きを読む "映画版「マンマ・ミーア!」試写会"

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2008年9月28日 (日)

映画「おくりびと」

葬儀の中でも、遺体を棺に納めるというプロセスを専門的に担当する比較的新しい職業「納棺師」を本木雅弘が演じるという映画。

監督は滝田洋二郎。特にファンというわけでもなく、いつも満足度が高いわけではないが、「コミック雑誌なんかいらない!」以来、そのほとんどを劇場で見ているという、自分にとってなじみのある監督だ。あまりひとつのスタイルにこだわることなく、貪欲に様々な演出に取り組むのがこの人の特徴とも言えるが、中井貴一主演の「壬生義士伝」あたりから、巨匠の風格が出てきたようにも感じる。

とにかく、この映画の最大の見所は、モッくんが手がける納棺の儀式、その様式美である。まさしく至高の美しさで、その前では胸を打つエピソードを綴るなかなかよく出来たストーリーも、どこか陳腐に見えてきてしまうほどだ。同じ滝田監督の「陰陽師」のラストシーンで、野村萬斎の舞姿を思い出させるな、と思っていたら、ラストではやっぱり、という展開だった。

だから滝田監督も、笑いも涙も盛り込みながらあまりそれらを強調せず、山形は庄内地方の空気感を生かし、静かに、本当に静かに、それこそなきがらをそっと棺に納めるように、映画全体を丁寧に包み込むように演出している。これが非常に観ていて心地いい。

モッくんのうまさはもちろんだが、競演者も見ごたえがある。何といっても「師匠」役である山崎務。名優との呼び声をほしいままにしている山崎務だが、やっぱりすごい。スクリーンに出ているだけで、息を呑む存在感だ。

ところで山崎務と葬儀の仕事、といえば誰もが伊丹十三の「お葬式」を思い出す。それをちゃあんと意識して用意されたシーンもある。これは今はなき伊丹十三へのオマージュだろう。

また妻役の広末涼子もいい。涼子ちゃんは「生」を感じさせることにかけては屈指の女優だ。これが「喪」をモチーフとした映画の中で強烈な印象を残し、モチーフの輪郭をより明確に際立たせて見せるのである。

もうひとり、峰岸徹の演技も特筆に価する。序盤、彼は背中だけの演技を見せるが、それだけで峰岸と分かる圧倒的なオーラを放っていた。それが終盤に大きな影響を与え、映画全体の感動を膨らませている。

一流のキャスト、スタッフの丁寧な仕事ぶりが生きた快作。すでにモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞したが、今後国内でも多くの賞を獲得するのは間違いないだろう。

Hyoushi

「おくりびと」公式サイト
http://www.okuribito.jp/

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2008年9月27日 (土)

映画「大決戦!超ウルトラ8兄弟」

ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン、ウルトラマンAの旧世代4作と、ティガ、ダイナ、ガイア、メビウスという新世代4作、計8作品のの主演俳優と、それぞれのヒロインがずらりと競演した、奇跡のような映画。

このキャスティングだけでも劇場へ行く価値は十分にあるが、映画としてもなかなかよく出来ている。「ウルトラマンネクサス」と映画「ULTRAMAN」を生んだ「ULTRA N PROJECT」の失敗を受け、懐古趣味で作られた「ウルトラマンマックス」。しかし続く「メビウス」は単に懐古趣味にとどまらず「ウルトラマンとは何か」という命題を掲げてそれを掘り下げ、高い評価を受けた。この映画はその延長線上にテーマを置き「日本人の心とウルトラマン」について考えさせる内容になっている。そしてそこに40年という「時間」が非常にうまく絡んでおり、ベタながらも心を打ついい映画に仕上がった。

もちろん、これまでの作品にちなんだエピソードやセリフがかなり盛り込まれており、その理解には相当に深い知識が求められるなど、かなりウルトラファンとして試される。しかも、旧作だけでなく、ティガやダイナもきちんと見ていなくてはいけない。これはなかなか大変だ。

旧作の主役とヒロインはみな夫婦という設定になっている。あまり恋人同士な雰囲気のなかったアキコとハヤタ、泣き分かれとなったアンヌとダン、ナックル星人に惨殺されてしまった坂田アキと郷秀樹、月に帰った南夕子と北斗星司。それぞれ異なる感慨を持つ4組の夫婦だった。それにしても、榊原るみがいまだにかわいいってのはどういうことだ。

技術的にも、伝統の「特撮」とCGの新旧2つの破壊・戦闘シーンを用意し、古いものには古いものの、新しいものには新しいものの良さがあることを再認識させてくれる。それが、映画のテーマにもつながっている。

親子2世代で楽しめる作品、ともいえるが、よく考えるとティガやダイナを見ていた子供たちはいま中学生ぐらいで、とてもウルトラマンの映画など見に行くとは思えない。やはりこれは、ずっとウルトラマンを忘れずにいるいい大人たちに向けて作られた映画だ。これまでも、そしてこれからもウルトラマンと共に生きていく人は、ぜひ劇場に足を運び、このメッセージを受け止めるといいと思う。

Yokohama

「大決戦!超ウルトラ8兄弟」公式サイト
http://ultra2008.jp/index.htm

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2008年8月23日 (土)

映画「デトロイト・メタル・シティ」クラウザーさあん

待ちに待った、と言うほどでもないが、それなりに楽しみにしていた「デトロイト・メタル・シティ(DMC)」実写映画化。率直な感想として、非常にいい映画だったと思う。

原作にある、とてつもなくお下劣な部分がだいぶ和らげられ、全体的にマイルドな味わいになっている。また、原作では常にギャグの味付け、オチの前振りでしかない「感動」の要素がだいぶ強調されていることから、原作のコアなファンは「こんなのDMCじゃない!」と怒るかもしれない。

確かにテイストの違いは感じる。しかし、これはまぎれもなくDMCである。そう言い切れるのは、ひとつには原作のさまざまなシーンやエピソードを丁寧に拾い上げ散りばめていることがある。実にうまくまとめていた。そしてもうひとつ、スタッフ、キャストがみなこのDMCの面白さがどこにあるのかを正確に理解した上で、それぞれの仕事をこなしているように感じる。これが大きいと思う。

DMCの面白さは、ファンがヨハネ・クラウザーⅡ世のことを「クラウザーさん」と呼ぶところに象徴されるように、ファンたちがクラウザーを崇拝しつつも、「~様」というほどには距離を置かず、至近距離からその妄想を投射するために、結果的にクラウザーの虚像が本人の意思とは無関係にどんどん膨らんでいってしまうところにある。

李闘士男監督はそのツボを的確に抑えていた。だからこそ、「ファンたち」という名前すらない役に、大倉孝二という芸達者な俳優を据えた。大倉のほうもその意味を正確に理解し、緻密な演技で存在感を放っていた。ここがこの映画を成功させた大きな要因だ。

そして松山ケンイチは期待どおりのすばらしい演技。「根岸崇一」をやや過剰気味の演技で、「ヨハネ・クラウザーⅡ世」をぐっと押さえた演技で見せているところが心憎い。並の役者なら逆にしてしまい、映画なのに「漫画的」なクラウザーが出来上がってしまうところだ。そして、ライブシーンでの立ち居振る舞いがえらくカッコいい。なんというか、決まっている。自分も決してメタルに詳しいわけではないが、「ああ、デスメタルってこういうところにシビレるんだろうなあ」と思えてくるほどだ。

松雪泰子がすごい女優だ、というのは最近舞台や映画でしょっちゅう感じさせられていることだが、今回もそうだ。いや、いつもより余計にすごい。この社長というキャラクターは、原作でも無茶苦茶すぎる人物だが、人間としてのスケールの大きさを感じさせる面もある。松雪社長は、その両面をきっちりと表現している。そして何より、怖い。

また、冒頭のシーンから登場する崇一の母、宮崎美子の演技もさすが。原作にも出てくるキャラクターではあるが、この宮崎の演技が、今回の映画に原作とは全く異なるニュアンスを与えるのに貢献している。それが安っぽい人間ドラマにならずに済んでいるのは、宮崎の演技が一級品だからだ。

一流のスタッフ、一流のキャストが、作ろうとしている作品の本質を理解し、その上で自分たちの力を出し切っている。その単純なことが、ここまで映画を面白くするのだというお手本のような映画である。

さて、今回この映画を観たのは、六本木ヒルズだ。せっかくだからDMCゆかりの場所にしよう、ということでここにした。

何しろこの六本木ヒルズは、クラウザーさんが東京タワーを孕ませてできたのだから。これは2巻に登場するネタだが、最新5巻の中にも、それをさりげなく受けた1コマがある。

Hills 

とにかく、観るかどうか迷っている人は、思い切ってGo to DMC!!

「デトロイト・メタル・シティ」公式WEBサイト
http://www.go-to-dmc.jp/index.html

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2008年7月13日 (日)

映画「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」ぬらりひょんの迫力

千年の時を隔てて繰り広げられる、「信頼」と「赦し」の物語。なかなかの佳作だ。

昨年公開された前作は、田中麗奈の猫娘や大泉洋のねずみ男など、反則技レベルのキャスティングの妙で妖怪の世界を描き出し、それはそれで楽しい映画になっていた。

しかし、今回は妖怪の世界を実現しただけでなく、その世界観を背景に見事なドラマを展開し、心に響く作品に仕上がっている。寺島しのぶが演じる妖怪・濡れ女の悲しい物語を軸に、「音」「時間」といったモチーフがきれいに絡んでいく脚本が実にいい出来だ。

演出の雰囲気も映像の色調も、前作に比べるとぐっとダークな雰囲気だ。「墓場鬼太郎」のヒットにも影響されたか、幽霊族の過去や鬼太郎の生い立ちなどについても触れている。前作とは異なる映画を作ろうという本木克英の意気込みが伝わってくる。

そしてそのドラマを支えるキャスト陣も、前回同様の豪華な顔ぶれ。そこに、超弩級のゲストが加わった。緒形拳が演じるぬらりひょんである。

世俗的な欲望に駆られた悪玉妖怪の元締めとして、あまたの妖怪を統率するぬらりひょん。前作を観たとき、もしぬらりひょんを出すなら山崎努か緒形拳だと思っていた。だから本作のニュースを聞いたときは飛び上がるほど嬉しかった。

その緒形ぬらりひょんは、出番は決して多くはないが、期待をはるかに上回る素晴らしいものだった。自らの手を汚すよりも、言葉によって妖怪の心をつかみコントロールする。それは舌先三寸の軽い言葉ではなく、魂の底から繰り出されてくるまさしく言霊だ。妖怪ならずとも、その言葉の魔力には抗うことはできないだろう。

そのあまりにも強烈な悪役を迎えながら、あくまでその存在は脇に置き、濡れ女の物語を中心に据えたところが、この作品の成功の要因だろう。

キャストといえば、田中麗奈の猫娘は、前作ではやや年齢的にキツいコスプレをさせられていたが、今回は衣装も一新、キャラ的にもはすっぱなツンデレ姉さんに変わっていて、これがまた萌える。

ダークではあるが、別に残酷なシーンがあるわけではないし、妖怪たちの派手な立ち回り(砂かけ婆や子なき爺の戦闘力の高さは意外)も楽しい。その点は安心して観られる作品だが、子供と一緒に観ると、たぶん寝てしまうと思う。大人の映画としてどうぞ。

Sennen

ところで「小説こちら葛飾区亀有公園前派出所」という、人気作家が自分たちの作品に両津を登場させた豪華にしてキテレツな連作集があるが、その中で京極夏彦が、「京極堂シリーズ」のパロディーとして「ぬらりひょんの褌」を寄稿している。これがまた面白い。

「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」公式WEBサイト
http://www.gegege.jp/

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2008年7月 5日 (土)

ウォシャウスキー兄弟「スピードレーサー」

こりゃ嬉しい映画だ。何が嬉しいかって、そのまんま「マッハGoGoGo」だからである。マッハ号のデザインやキャラクターの衣装もさることながら、観ていて伝わってくるワクワク感が、子供のころ観ていた「マッハGoGoGo」の興奮そのままである。

登場人物以外はほとんどCG、というより俳優がCGアニメの中に飛び込んだような映像は、「TRON」や「ディック・トレイシー」「バトルランナー」を思い出させ、やや嫌な予感をさせるものの、すぐに慣れてしまうから大丈夫。そしてこれほど最新技術を駆使し、かつエキセントリックな映像表現を用いながら、1960年代のアニメと同じ感覚を伝えてくれる、というのが素晴らしい。技術が変わろうと、キャラクターが日本人からアメリカ人になろうが、作品の世界観は守れるのだ。

ウォシャウスキー兄弟は本当に「マッハGoGoGo」を好きになって、その面白さをどうすれば再現するのか愚直に考えてこの映画を作ったのに違いない。作品の中に、原作へのリスペクトがあふれでるぐらいに充満している。

しかも、100%「マッハGoGoGo」の面白さを再現した上で、新たな価値を添えている。それは、この映画が「家族」の物語として感動を与えてくれる、という点だ。「Mr. インクレディブル」同様、家族愛をストレートに打ち出している点には、多くの人が好感を持つだろう。

これはぜひ、家族で観に行ってほしい快作である。

Paper
パンフレットに付属のペーパークラフトは、作るのがちょっと大変そう。

「スピードレーサー」の公式WEBサイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/mach5/

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2008年6月14日 (土)

「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」先行上映

6月21日ロードショーとかいいながら、先行ロードショーという形で実質的に封切られた「インディ・ジョーンズ」最新作。前作から20年の時を経て、待望の復活だ。

何で今さら、という人も多いかもしれないが、自分はこの大好きなシリーズがまた作られたことを素直に喜んでいる。

第一作の「レイダース 失われた聖柩」が1981年末に公開されたとき、自分はまだ中学生。世界的にはヒットを納めたこの映画だが、「超大作」というほどの規模でもなく、日本でもどちらかというと「ジョーズ、未知との遭遇のスピルバーグと、スター・ウォーズのルーカスが組んだ映画」ということで、映画マニアに訴えかけるようなプロモーションを展開していた。その結果、当時自分が住んでいた水戸で一番大きな映画館だった「京王グランド」ではなく、その地下にある小規模の映画館「京王プラザ」で上映されることになった。ちなみにそのとき京王グランドを占有していたのは絶頂期にあったハル・ニーダム監督の「キャノンボール」だった。

そのプロモーションに乗せられ、すでに映画好きを気取っていたヤボオ中学生は、本当は「キャノンボール」を観たかったのだが、ぐっと我慢して地下の映画館に向かったわけだ。しかしこれが無茶苦茶面白い。次々と起こるピンチを知恵と力で乗り越えていく、痛快無比の冒険活劇。映画とはこんなにも面白いものか、と衝撃を受けた記憶がある。

そして第二作「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」が公開された1984年の夏。これはその年の夏休み映画の目玉作品として派手にプロモーションされた。そのためすっかり映画マニア気取りだったヤボオ高校生は「今度は観なくていいか」なんて考えていたが、SFやミステリー、映画に非常に詳しかった2級上の先輩が「あの映像を見る限り、相当に出来のいい作品だと思う」という意見を述べていたのであっさりと折れて、今度はめでたく京王グランドでの上映となったロードショーへ。

そこで再び衝撃を受ける。観客がついていけなくなることもいとわず、ハイスピード、ノンストップで荒唐無稽すぎる冒険シーンを展開するという、元祖ジェットコースター・ムービーと出会った瞬間だ。すごいすごい、映画ってこんなこともできるんだ。娯楽の少ない田舎の高校生にはあまりにも刺激的すぎた作品だった。

そして第三作「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」。自分は大学生になっており、東京で暮らしていたが、帰郷したついでに水戸の映画館で観た。すでに京王グランド、京王プラザともになく、駅前に出来たばかりの西武デパートの中に作られた真新しい映画館だった。

チュニジアでのロケが印象的だった第一作、スタジオの中のシーンをメインに、まさしく遊園地な雰囲気で楽しませてくれた第二作は、いずれもあまり大風呂敷を広げず、小技で魅せる映画だった。しかしこの第三作は、すべてが大がかりなシーンの連続。巨大な客船の間を駆け抜けたり、戦車でカーチェイスを繰り広げたり、ナチスの集会に紛れ込んだり。それがどうも自分の琴線に触れなかったようで、ハリソン・フォードとショーン・コネリーとの掛け合いはステキだったものの、前2作と比べるとやや印象が薄い。

中学時代、高校時代、大学時代にそれぞれ1作ずつ観た作品だ。社会人になったころ新作が出てくるといいな、と思っていたが、それが実現するのがこんなに時間がたってからだったとは。「リストラ時代」になる前に、何とか間に合ってくれた。

その最新作。アカデミー賞を取ってからのスピルバーグは、すっかり馬鹿映画に戻ってきてくれて本当に嬉しい。彼の最高傑作は「1941」だと信じて疑わない身としては、だ。その馬鹿映画監督としての超一流の技が冴えまくる。それをルーカスの提示する、揺るぎのない世界観が包み込む。そこにハリソン・フォードのケレン味あふれる存在感が加わる。もうそれ以上何を望むというのだろう!旧作とのつながりも、明示的、あるいは隠れキャラ的にそこかしこに散りばめられてファン心理をくすぐってくる。

感触としては、第二作と第三作の間ぐらい、という感じだろうか?腰が抜けるほど面白い、というほどでもないが、こんなにも安心して、こんなにも楽しませてくれる映画はそう滅多にお目にかかれるものではない。冒険活劇の「お約束」を全部詰め込み、さらにこのシリーズの隠し味である、ややブラックな笑いもきちんと織り込んである。まがうことなきインディ・ジョーンズの味わいをとくとご賞味あれ。

なんだか旧作の思い出を語っているうちにお腹いっぱいになってしまい、新作についてろくすっぽ考えていないエントリーになっちまったが、余計なことは考えないのがこのシリーズの楽しみ方だ、としておこう。

シリーズの復活をどこで祝おうかと考え、シネコンではなく日劇へ。ロープにぶらさがるジョーンズ教授。

「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」公式WEBサイト(音出ます)
http://www.indianajones.jp/

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2008年6月 8日 (日)

内田けんじ「アフタースクール」

三谷幸喜の「マジックアワー」が封切りになったが、いったんスルーして今週はすこぶる評判のいい「アフタースクール」を観た。

なるほど、こりゃあ面白い。ネタバレがこわいので、今後観る予定のある人は絶対この先読まないでください。観ようかどうしようか迷っている人は迷っていないで劇場へどうぞ。

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2008年5月10日 (土)

映画版「ひぐらしのなく頃に」公開初日舞台あいさつ

ひぐらしのく頃に」実写版がやっと公開になるというので、池袋シネマサンシャインに初日の舞台あいさつを見学に行った。

自分は、「ひぐらし」のコアなファンではない。原点となったゲームは主要八編のうち「鬼隠し編」をプレーしただけで、マンガ・アニメ化されたものには手をつけていない。だからそもそもこの作品の全体を語る資格はないし、多くのファンから熱狂的な支持を受けている作品だけに、軽率に語ることは許されない。さらに言うと、自分がこのゲームをプレーしたのは昨年のことで、現代日本の誇る批評家、東浩紀氏が「ゲーム的リアリズムの誕生(動物化するポストモダン2)」の中でこの作品について触れていたのがきっかけだった。そこで美しい分析がなされているので、自分なりに考察してみよう、という気にもあまりならないのだ。

あえて単純な感想だけを言えば、大いに楽しいコンテンツだった。全く選択肢のないサウンドノベル、というのも画期的だが、やはりその世界観は魅力的である。主人公と4人の美少女の他愛のない日常を描く、というPCゲームの王道な展開を全体の6~7割で見せ、終盤いっきにホラー的な展開となって惨劇が繰り広げられる。自分にとっては、どちらかというと前半のどうでもいい6~7割がツボにはまった。それが、子供のころの「夏」の心理状態をリアルに思い出させてくれるものだったからだ。

子供のころの夏の思い出、というと、プールに花火に山登り…と楽しいことばかり出てくるが、実際に子供の時分、どういう心理状態だったかを考えると、必ずしもうきうきしてばかりはいなかった、というよりも「不安」「恐怖」が常に同居していたと思う。それには多くの理由がある。まず、言葉を聞くだけでわくわくする「夏休み」という単語は、常に「いつか終わる」という絶望的な響きを伴っている。そして、日本の夏は死について考える機会が多い。お盆はその最たるものだが、8月になると戦争に関する特集番組やドラマの放送が増えることも影響している。肝試しのイベントがあったり、お化け屋敷に行ったり、怪談を聞いたりするのも主に夏だ。目の前にあるのは楽しいことばかりなのに、いつもなんらかの不安の影が心の中には広がっていた。

このゲームの前半部分をプレイしていると、まさにそんな気持ちが味わえる。プロローグ部分で、バッドエンドを象徴するテキストを読まされているため、美しい女性4人に囲まれているという現実にはあり得ない楽しいシチュエーションに浸りながらも、それがいつ惨劇に転じるのか、不安は常に存在する。楽しさと、不安とのバランスがまさに少年期の「夏」なのである。そこにかぶさるひぐらしの鳴き声。田舎育ちの自分にとって、ひぐらしの声は夏の心理状態を発動するトリガーとして十分すぎる。ひぐらしはセミなので実は朝にも鳴くのだが、その大合唱で飛び起きることもあったぐらいだ。

というわけで、メディアミックスで大ヒットした要因についてはあまり理解できていないのだが、少なくとも自分にとってこの作品は好感の持てるものだった。

その程度のファンなのになぜ舞台挨拶にまで行ったのか。それはもちろん、AKB48チームKの小野恵令奈が出演しているからである。結局それかよ。

舞台あいさつは上映後ということで、まず本編を鑑賞。おそらく、思い入れのあるコアなファンにとっては、まず実写映像化ということ自体、なかなか受け入れにくいだろう。サウンドノベルは、読者の想像力によって完結するコンテンツであり、ファンが100万人いれば100万通りの「ひぐらしのく頃に」が存在しているのだから。すべての人が納得できるビジュアライズなど、到底不可能だ。

だが、ファンと名乗ることすらおこがましいレベルのライトファンで、かつ一般的に原作の映像化に寛大な姿勢を持っている自分としては、この映画もまた好ましいものだった。原作から受ける印象を、あまりいじりまわさずに、素直に映像化していると感じた。当初は8編全体をダイジェスト化したようなストーリーも考えていたのだそうだが、結局ほぼ「鬼隠し編」のみにしぼったことは正解だったと思う。それによって、前半のほのぼのとした日常生活や、美しいながらもどこかもの悲しさを漂わせる「雛見沢村」の風景に、ある程度の時間を割くことができた。個人的には、もっとそれらを強調してもよかったと感じたが、そこは好みの問題だ。怖いだけの映画ではなく、学生時代の日常をみずみずしいタッチで描いた、高校生映画(たとえば「ウォーターボーイズ」とか「スウィングガールズ」とか、最近で言えば夏帆の「うた魂」とか、ひと昔前で言えば大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」みたいな、やや現実的でないサワヤカな映画。自分が結構好きなジャンルだ)のテイストをきちっと踏まえているところがいい。

ゲームをプレーしたとき、大いに震撼させてくれたレナの「嘘だッ」は、映画版でも重要なポイントとして使われているが、演出が過剰すぎて満員の客席から笑い声も漏れていた。

キャスティングも、最初は「あれ、魅音よりレナのほうが身長高いじゃん」とかいろいろ違和感があったが、見ているうちに気にならなくなってくるのは演出の勝利が、役者の努力か。ただ構成の都合上、沙都子と梨花は大幅に出番が削れられている。梨花にはまだ綿流しの儀式があるからいいが、沙都子はえれぴょんが演じてなければほとんど空気だ。だいたいセリフも最初の「私じゃありません」以外何かあったっけ?しかしえれの存在感は強く、立っているだけで絵になる。だからこそ、この役に起用したのか。

上映後に、お待ちかねの舞台あいさつ。主要キャストと監督、原作者が並び順にあいさつ。みな緊張のせいかたどたどしいあいさつで、いちばんはきはきと答えていたのが原作者の竜騎士07だった。小野も、AKBの舞台では人をくったように余裕の表情だが、いつもと勝手が違うのかやや緊張モード。途中で言葉につまって周りのメンバー、いや出演者に助けを求めたのは確信犯かもしれないが。簡単なあいさつと、学校シーンの撮影で、現地の子供たちと友達になったというえらくほのぼのとしたエピソードを披露していた。

この舞台あいさつを観ながら、何かに似ているなあ、と感じていたが、思い出した。「鬼隠し編」をプレーしたとき、本編シナリオ終了後に「お疲れ様会」として、ゲーム中に登場したキャラクターが「俳優」という設定で登場し、ストーリーやそこに秘められた謎などについてあれこれと意見を交わす、というおまけシナリオがあったのだ。本編の最後は超バッドエンドなので、あのお疲れ様会でだいぶ気持ちが救われた記憶がある。まさにこの舞台あいさつは、「お疲れ様会」の役目を果たしてくれた。

Higu

「ひぐらしのなく頃に」映画WEBサイト
http://www.higurashi-movie.com/

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2008年4月 6日 (日)

映画「クローバーフィールド」

※大したことは書いてませんが、この映画は予備知識なく観るのが楽しいと思います。

謎の映画、というプロモーションが奏功し、全米がそこそこ震撼したらしい「クローバーフィールド」が日本公開だ。

手っ取り早く言うと、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のような怪獣映画。パニックに巻き込まれた民間人がホームビデオで撮影した記録映像、という設定で、手ぶれ、ピンぼけ満載の1時間25分だ。

手法としては斬新だが、そこで描かれているのは意外に正統な怪獣映画だ。逃げまどう人々、立ち向かう軍隊、極限状態の人間ドラマ、そして容赦ない破壊。ハリウッドのモンスター映画より日本の特撮映画に雰囲気としては近く、怪獣映画世代にはなんとなく懐かしさが感じられる。実際、プロデュースしたJ・J・エイブラムスは日本の怪獣映画にインスパイアされてこの作品を創ったのだそうだ。

日本の怪獣映画は科学者や軍隊の視点から描くのが定石だが、そのフォーマットを崩そうという試みがなかったわけではない。最近では、平成ガメラシリーズの「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」が主に民間人からの視点で描かれていたのが記憶に新しい。だがこの「クローバーフィールド」ほどぶっとんだものはさすがにない。怪獣映画というジャンルの懐は意外に深く、ここまでやっても大丈夫なのだ、ということを証明したと言ってもいいだろう。

怪獣映画好きには意外とお奨めの1本だ。ちょっと恐いけど、日本の特撮映画も当時はちょっと恐かったわけで。

Cf

クローバーフィールドのWEBサイト

http://www.04-05.jp/

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2008年3月16日 (日)

ディズニー「魔法にかけられて」復活!メンケン&シュワルツコンビ

予告を観るたび、早く鑑賞したい気持ちでいっぱいだった「魔法にかけられて(Enchanted)」がやっと公開。

これがディズニーのセルフ・パロディー作品であることはプロモーションでさんざん語られている。自分もそれを大いに楽しみに行った。

冒頭の十数分のアニメーションは、ウォルト・ディズニー・クラッシックスをミックスして煮詰めたようなプリンセス・ストーリーで、これだけでもディズニー作品に親しんでいる人なら大爆笑である。まあ親しんでなくても、コテコテの2次元アニメなので、ああディズニーのアニメーションっぽいなあ、とは感じていただけるはず。

最近はディズニーのアニメといえばピクサーの3DCG作品ばかり。それはそれで好きで、ジョン・ラセターは最も尊敬している映像作家の一人だが、やはりディズニーは2D(といってもデジタルで描いているには変わりないが)にこだわってほしいような気がする。

プリンセスが現実世界のニューヨークに舞い降りてからは、ことごとく「夢と魔法の王国」のお約束が覆されることで笑いを誘い、そこがこの映画の一番のみそになっている。

感心したのは、現実世界の視点でファンタジーを笑うというパロディーと、ファンタジーの視点で現実を見るという逆方向のパロディーとが同時進行で進み、それがラストできれいにつながるという美しい脚本の構造だ。

そしてその、2つの世界観を行き来するという設定を、無理なくスムースに観客に受け入れさせているのが、「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」で、90年代にディズニーアニメ復活をもたらした立役者、アラン・メンケンの曲だ。メンケンがディズニーに曲を提供したのは「ヘラクレス」以来10年ぶりだそうだ。

「リトル・マーメイド」で、メンケンはディズニーアニメ独特のミュージカルメソッドを捨て去り、ブロードウェーミュージカルの手法をアニメの世界に持ち込んで大成功を納めた。そこで生まれた新しいディズニーアニメのミュージカルメソッドを、今度は実写に展開してみせている。今回のミュージカルシーンのハイライト「想いを伝えて」は、「アンダー・ザ・シー」を初めて観たときの衝撃と同じぐらいエキサイティングだ。

そして歌詞を担当しているのはスティーヴン・シュワルツ。言わずと知れた「ウィキッド」の作詞・作曲の人です。この2人は「ポカホンタス」「ノートルダムの鐘」でもコンビを組んでいる。

このコンビの復活、というだけでも嬉しいが、なんだかディズニーミュージカルとウィキッドがタッグを組んだようで、ミュージカルファンにはなんともこたえられない仕上がりになった。

さらに言えば、ナレーションを担当しているのは世界のミュージカル女優の頂点に立つ、ジュリー・アンドリュース。何度も自慢するけど、彼女の「ビクター・ビクトリア」を俺はブロードウェーで観てるからね。そして、シュワルツの友情出演か、「ウィキッド」エルファバ役のオリジナルキャスト、イディーナ・メンゼルも緑ではない顔で参加している。歌ってはいない。

というわけで、ディズニー映画好きとして観に行ったが、途中から完全にミュージカル好きのモードに切り替わっていた。ディズニー好きかミュージカル好き、あるいはその両方の人は必見の映画といえるだろう。

なんだか、このまますぐ舞台にもできそうな映画だ。それ、実際にアリエル、いやあり得るかも…おやじギャグは自粛しよう、ただでさえおやじなんだから。

Maho

主演に、エイミー・アダムスといういまいちピチピチ感の欠ける女優を起用したところが実にいい結果を生んだ。

「魔法にかけられて」WEBサイト
http://www.disney.co.jp/movies/mahokake/

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ヘイデン・クリステンセン「ジャンパー」

テレポーテーションの能力を持った男の話。

それ以外に何もない。

テーマも、ドラマも、もちろんテーマだとか風刺だとか、余計なもの一切ない。謎解きも、ギャグも、涙も一切ない。

素晴らしい!

こういうアメリカンな馬鹿映画を心待ちにしていたのだ。

なのに主人公と敵対するのが、ヘイデンとは「スター・ウォーズ」でも共演したサミュエル・L・ジャクソンだったり、母親がダイアン・レインだったりと無駄に豪華。無駄といえば東京ロケも見事なまでに意味がない。

そして最高なのが、上映時間が1時間28分というところだ。だいたい最近の映画は長すぎる。映画の長さは、このぐらいがちょうどいい。また1時間28分といったら、シルヴェスター・スタローンの最高傑作「コブラ」と全く同じ上映時間だ。あの歴史に残る偉大な馬鹿映画に対するリスペクトとして、時間をそろえたのではないかと考えたのは地球上で俺一人だろうが、そう思いたくなるほどのハイレベルな馬鹿さ加減だ。

とにかく、ハリウッド映画とは馬鹿馬鹿しさを売るものだ、と信じて疑わない純真な映画ファンに、ぜひお勧めしたい作品だ。一方、「泣きたい」という不純な動機で映画を観る人は、決して観ないでください。観ないでしょうが。

Jamp

「ジャンパー」WEBサイト(音出ます)
http://movies.foxjapan.com/jumper/

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2008年2月10日 (日)

映画「L change the World」

一昨年大ヒットを記録した、映画「デスノート」のスピンオフ作品がついに公開。キラ=夜神月の好敵手にして稀代の名探偵、Lの最後の23日間を描く。

いきなりばれるのでたたんでおきましょう。

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2008年2月 2日 (土)

リドリー・スコット+ラッセル・クロウ+デンゼル・ワシントン「アメリカン・ギャングスター」

*だいぶバレますので、これから観る人は読まないでください。
 でも、映画はぜひ観てください。

先週、実写版「魁!!男塾」を観たが、もし男塾の映画化権をハリウッドが買ったとしたら(100%ない話だが)、監督はぜひリドリー・スコットにお願いしたい、とかねがね考えていた。だから、今週彼の最新作を観るというのにはまこと勝手な話ではあるが奇妙な偶然を感じていた。

何しろ「ブラック・レイン」「グラディエーター」を始め、数々の匂い立つようなオトコの映画を撮ってきた監督だ。そのリドリー・スコットが、ラッセル・クロウとデンゼル・ワシントンという、これまた侠気あふれる当たり役をこなしてきた2大スターの対決を描くというのだから、これは「魁!!男塾」以上に男のための男の映画になっているのに違いない、と期待するのも当然だ。

だが、始まってみると、想像とはやや異なっていた。

実話をベースにしているからか、あまり過剰な演出はない。2人の男の生き様を、比較的淡々としたタッチで描いて物語は進む。2時間37分という大作だが、そのほとんどをこの人物描写に費やしており、実際に「対決」するのは最後も最後である。インタビューによれば、まず8週間ラッセル・クロウのパートを撮り、その後8日間2人の共演シーンを撮り、その後8週間デンゼル・ワシントンのパートを撮ったのだそうだ。

家族の幸せのため、仕事は仕事と割り切ってどんな悪事も冷静にこなす麻薬王フランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)と、仕事への責任感は誰よりも厚いが家族のことは後回し、という刑事リッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)。その対称的な2つの人生を交互に描いていく、という構成はどこか「ゴッドファーザー2」を思いださせる。淡々とした演出ではあるが、カメラワークやシーンのつなぎ方といった基本的な部分の高い技巧と、そこに2人の役者のどんなにおさえてもにじみ出てしまう強いオーラが混じり、飽きさせずに見せてくれる。

でも、何かもの足りない。せっかくこの監督、この役者なのだから、もっとこうギラギラしたものが見たい。それに、人物描写をここまで時間をかけてやる必要が果たしてあるのだろうか?そんなことを感じながら観ていた。

しかし、そこはリドリー・スコットである。すべては計算されたものだった。

上映時間にして2時間を超えたあたりから、ようやく物語は緊迫の度合いを増し、次第に2人の人生が交差し始める。そして西部警察ばりの銃撃戦。さほど長くはないシーンだが、ここまで押さえたタッチが続いていただけに、実に効果的に観る者の気分を高揚させる。そしてついに、相まみえる2人の男。もうこの段階で上映時間は残りわずかだ。

ところが、真の物語は、実にここから始まるのである。

「実話」ではあるが、意表を突く展開。なるほど、そう来たかとにやにやしながらスクリーンを見守る。こういうことなら、長い時間をかけて2人の人生を描くことに力を注いだのにも納得である。

そして見終わったあとに残るのは、正真正銘オトコ映画を見終わったあとの、ちょっと濃いめの爽快感。いやあ、さすがはリドリー・スコット。期待を裏切りながら期待に応える、ハリウッドの名匠だ。お勧めの一本である。

ところで、リドリー・スコットといえば日本通で知られ、それが「ブラック・レイン」にもつながったわけだが(本人は日本のことを正確に理解しているようだが、映画上ではデフォルメしたイメージで描いている)、その作風にも、日本映画に通じるものが見て取れる。本作においては、フランクが麻薬ビジネスでのし上がっていく様子がそのままそっくり「仁義なき戦い」だ。彼が実際に仁義なき戦いを観ているかどうかは知らないが、デンゼル・ワシントンの演技に、小林旭を重ねて観ていたのは俺だけではあるまい。

この映画を観て、やっぱりリドリー・スコット版「魁!!男塾」を観たくなった。だって、終盤の展開はまさしく「驚邏大四凶殺」から「大威震八連制覇」への流れじゃないか!

Gyang

「アメリカン・ギャングスター」のWEBサイト
http://americangangster.jp/

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2008年1月26日 (土)

映画「魁!! 男塾」舞台挨拶であるーっ!

※少しばれます。

実写版「魁!! 男塾」が初日を迎えた。ところが上映館数がえらく少ない。自分の住んでいる柏市はもとより、東葛地区、埼玉東部、茨城南部と拡大して考えてもひとつも見当たらない。仕方なく都心に出ることにしたのでどうせなら初日舞台挨拶を見学しようということに。

舞台挨拶が行われるのは新宿のシネマスクエアとうきゅうと渋谷のミニシアター、シアターN。ミニシアターのソフィスティケートされた雰囲気が苦手なので(大衆的な映画が好きなので)、新宿に行こうとしたが寝坊してしまい渋谷に変更。100席ちょっとしかないので座れるか微妙だな、と思ったがぎりぎり座席を確保できた。

上映開始前に行われた挨拶には、坂口拓(監督・剣桃太郎役)、照英(富樫源次役)、尾上寛之(極小路秀麿役)、山田親太朗(虎丸役)、麿赤兒(江田島平八役)のほか、「応援」として多数の出演者がかけつけにぎやかに進んだ。

インタビューは、くちぐちに「男の映画」「男くさい」「男ばっかり」「もう男は見たくない」と「男話」で盛り上がる。そのうち照英は「坂口、愛してるよ!」と叫び、麿は「男も磨き抜かれてくるとセクシーになってきて、尻のひとつも触りたくなってくる」と恐いことを口にし、だんだん妙な雰囲気に。男同士の友情と、ホモの世界の間には、そんなに明確な境界線はないのだろう。最後は麿の「上映開始であるーっ!」の号令で締めとなった。

それにしてもこの5人の組み合わせは絶妙で、照英がムードをつくり、山田が空気の読めない行動に出て周囲を不安にし、尾上が場をつなぎ、麿がおいしいところを持って行き、坂口がまとめる、といった分担。この役割が映画の中でもそのまんま演じられているから面白い。

この映画の物語は、原作の序盤となる男塾への入塾から「驚邏大四凶殺」までのエピソードを再構築している。自分は映画化されたものが必ずしも原作に忠実である必要はないと思うが、今回はその再構築作業を非常に丁寧に行っており、監督・脚本・主演の坂口がいかにこの原作マンガを愛し、敬意を表しているかがひしひしと感じ取れた。1本の映画にまとめるため、「四凶殺」を「三凶殺」にしたり、といったこともしているが、原作の精神をきっちりと理解して組み立てられていることで、あまり違和感も感じずに済んだ。

感心したのは、映画のクライマックスを、桃vs伊達臣人の戦いとオーバーラップさせる形ではあるが、一号生たちの大鐘音エール&秀麿の喝魂旗掲揚、つまり死地に赴いた同級生に向け、声も枯れよと塾生たちが応援するシーンに置いたことだ。男塾は基本格闘ギャグマンガだと思うが、そこには一種独特の魅力がある。その魅力を支えているのが、「男塾」という場であり、そこで暮らす馬鹿な生徒たちの熱い団結である。この映画では、格闘シーン以上に、そうした男塾の愛すべき面々を描くことに力を入れており、それによって「魁!! 男塾」の世界観を正しくスクリーン上で表現することに成功していた。

演技の面では、照英の富樫が出色の出来だった。最初このキャスティングを聞いたときは、ハマリ役だと思いながらも、実写版「魁!! クロマティ高校」のようなギャグ映画になるのかと思った。しかしそれは大きな見込み違いで、照英の演じる、熱さだけは誰にも負けない、そして誰にも愛される富樫は、この映画そのものと言っていいほど大きな存在感を示していた。正直、その表情には何度も涙を誘われた。本当の意味でのハマリ役だったのである。

本作のひとつの売りは、CGを使わない生身のアクションである。韓国映画の「火山高」やチャウ・シンチーの「カンフーハッスル」を観るたび、こういう手法で男塾を映画化したら面白いのになア、と感じていたが、最近そうした映画はやや食傷気味なので、今回のCGレスアクションは新鮮に感じられた。そして、若かりしジャッキー・チェンの「ヤングマスター」や「ドラゴンロード」などを思い出させる、懐かしい雰囲気もあった。

千葉繁のナレーションなど、男塾ファンならニヤニヤしながら楽しむことができる。また原作を知らない人にも、久々に登場した、男たちの馬鹿で熱い映画の傑作を存分に楽しんでもらいたいと思う。

200801261320000

映画「魁!! 男塾」のWEBサイト
http://www.otokojuku-the-movie.com/

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2008年1月12日 (土)

映画「劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸」

昨年12月公開だが、時間が合わずに観ていなかった劇場版BLEACHを鑑賞。

今回は護廷十三隊十番隊隊長・日番谷冬獅郎をメインにしたオリジナルストーリーだ。日番谷の抱える重い過去を探る展開であり、BLEACHらしいポップな笑いは最小限にとどめられている。主役の黒崎一護もいつになく冷静だ。個人的には、もう少しお笑い要素が欲しかったような気がする。正月映画だし。

ストーリーはオリジナルだが、オリジナルのキャラクターは少なく、レギュラー陣の顔見世興行のような作品にもなっている。

といってもレギュラー陣の数が半端じゃなく多いので、かなり無理やり全員出した感が否めない。多くのキャラクターがセリフは一言、二言のみであり、十一番隊副隊長・草鹿やちるに至ってはセリフを発していない。

配役表を見ると、その少ない出番のために集まった人気声優・実力派声優・アイドル声優の名前がきら星のごとく並んでいる。この豪華絢爛さは正月映画にふさわしいと言えるかもしれない。

もともと、少年マンガはストーリーよりもキャラクターに依存しているものが多い。「ドカベン」しかり「キン肉マン」しかり。しかし、最近その傾向がますます強まっているような気もする。

これは東浩紀がかつて「動物化するポストモダン」で指摘した「データベース消費」、つまりマンガやアニメが、その物語や世界観よりも、脳内補完のための素材を提供するものになりつつある、という傾向に呼応したものなのだろう。その代表的な存在が「BLEACH」と「NARUTO」だと言える。

BLEACHの原作者である久保帯人は、絵が飛び抜けてうまいわけでも、ストーリーテラーとして卓越した技を持っているわけでもない。しかし、朽木ルキアに象徴されるように、実に魅力的なキャラクターを生み出す。そこに目をつけた編集者はさすがというべきか。最初はさして面白くなかったが、尸魂界編に入って、護廷十三隊という集団が登場したことにより、久保のキャラクター創造力が爆発して俄然面白くなる。何しろ13も隊があり、その隊長、副隊長だけで26人。平の隊士を入れるとその数は膨大だ。それらの人物をひとりひとり丁寧に描き出した結果、とてつもない面白さにつながった。ストーリーは別に血わき肉躍るようなものでもないのだが、個性的な死神による群衆劇は新鮮な刺激に満ちあふれていた。

同じことがNARUTOにも言える。NARUTOはキャラクターの動きはスピーディーだけど、物語の展開は結構もっさりしている。アニメーションになるとそのギャップがより明確になり、戦闘シーンは派手な画面展開で観るものを釘付けにするのに、話はなかなか進まない。三代目火影が大蛇丸に命をかけた大技をかけてから、その戦闘が終了するまでにいったい何週間かかったことか。

このキャラ全盛の流れが次に変わるのはいつになるだろう。その流れに真っ向逆らったことでヒットしたのが「DEATH NOTE」だったのだと思うが、結局これもLという稀代のキャラクターを生んだマンガ、ということで歴史に残ってしまいそうな勢いだ。そう簡単に時代は変わりそうにない。別に不満があるわけではないが、次のトレンドがどうなるのかは少し気になるところだ。

Gotei

↑この年齢で覚えるのはきつい。ミスター梅介のような記憶力が欲しいところだ。

「劇場版BLEACH」WEBサイト
http://www.bleach-movie.com/

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2007年12月22日 (土)

映画「魍魎の匣」やっと公開

制作発表会見からずいぶんと長らく待たされたが、やっと公開にこぎつけた映画「魍魎の匣」。「姑獲鳥の夏」に続く、京極夏彦の「妖怪シリーズ(通称:京極堂シリーズ)」第二作の映画化だ。

このシリーズでは、古本屋にして「憑きもの落とし」の京極堂(中善寺秋彦)、人の記憶が見える超能力を持った破天荒な探偵・榎木津礼二郎、気弱な小説家・関口巽らアクの強い連中が集まって、毎回奇妙な事件を解決していく。基本はミステリーだが、重厚な描写と圧倒的な情報量で築きあげる独特の世界観と、登場人物のユニークさ、犯人捜しやトリック暴きではなく、人の心の中に潜む事件の原因を客観的に突き止めていく斬新な手法などにより、絶大な人気を誇っている。自分もファンの一人だ。

2005年にはシリーズ第一作「姑獲鳥の夏」が映画化されたが、そのときの監督は故・実相寺昭雄。賛否は分かれたが、自分は比較的好感を持った。実相寺の演出は個性的過ぎると言われるが、「ウルトラセブン」を撮っていたころに比べれば、晩年の実相寺作品は格段に丸くなっており、毛嫌いするほどではない。そして、「帝都物語」もそうだったが、この映画で表現されたビジュアルイメージは、自分が原作を読んで感じていたそれにぴったりと重なっていた。そうでなかった人にとってはさぞ不満の残る作品だっただろうが。

とにもかくにも「魍魎の匣」の制作が決定してから、本当に楽しみにしていた。監督は原田眞人だという。原田眞人といったら最近の人にとっては「突入せよ! あさま山荘事件」とか「金融腐蝕列島〔呪縛〕」とかだろうが、自分としては「おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!」であり「ガンヘッド」である。つまり、世間的にクソ映画扱いされているが自分にとっては傑作を提供してくれる人だ。これは期待するところ大である。

しかし、公開日がやっと決まって、不安になった点がある。R-15はおろか、PG-12にもなっていない。「魍魎の匣」はシリーズの中でもとりわけ猟奇性の高い作品だ。指定がないということは、だいぶマイルドになっているということか。別にスプラッター好きではないのでいたずらに残虐シーンを望むわけではないが、この作品においては死体を用いた描写が不可欠だ。それがなくて果たして成立するのか?期待と不安を持って鑑賞に臨んだ。

観終わっての感想だが、まず上記の不安についてだが、これは杞憂に終わった。かなり踏み込んで描写している。正直、かなりキモチ悪い。怖い映画の嫌いな人は観ないほうがいい。自分もちょっと苦手なので、あれ以上踏み込まれたらちょっとやばかった。今からでも遅くないから、PG-12にしたほうがいいんじゃないか。

そして原田演出の京極ワールドはどうだったか。多分にネタバレを含むので、これから観る人はここから先は読まないでください。

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2007年10月20日 (土)

映画「ヘアスプレー」トラボルタが気持ち悪い

ヘアスプレーである。自分にとっては昨年末のブロードウェー観劇今年の来日ツアー版観劇に続く映画版の鑑賞だ。もちろん、そのブロードウェー観劇の前にジョン・ウォーターズ版の映画「ヘアスプレー」(1988)は押さえている。

ここで説明しておくと、「ヘアスプレー」はもともとジョン・ウォーターズ監督による映画である。それも氏の出世作「ピンク・フラミンゴ」ほどではないものの、既存の価値観なんてぶっ飛ばせという過激なメッセージを含んだだいぶ悪趣味な映画だ。しかし物語では、それが結果的に人種差別の撤廃といういたって社会的なメッセージに収斂されたため、政治的に正しい映画と解釈することもできる。これを、ブロードウェーのプロデューサーが60年代音楽満載のミュージカル・コメディーに仕立て直して上演したところ、大ヒットとなり2003年のトニー賞を受賞。それをまた映画にしたのが本作、ということになる。

「ウェストサイド物語」の映画版と同じく、この作品も空撮から始まる。そして映し出されるボルチモアの町並み。それは数年前の出張で、ニューヨーク-ワシントン間を非人道的な身体検査を避けるために特急列車で移動したとき、車窓から見たボルチモアと何ら変わるところがない。あの時代が止まったような町並みは、その保守的な土地柄を象徴的に示しているものだ。

本作の出来だが、基本的には舞台に忠実に作られており、ミュージカル「ヘアスプレー」ファンにも大満足の出来となっている。そして初めて「ヘアスプレー」に触れる人にとっても、ユニークな登場人物とゴキゲンな音楽とで観客を力強く引っ張っていく、大いに楽しい一作だ。

チビでデブだけどダンスは抜群の嵐を呼ぶ娘、トレーシーにはオーディションで選ばれたニッキー・ブロンスキー。ブロードウェーのオーディションにも応募したが年齢的にまだ16歳ということで合格できなかったのだという。幼少時よりレッスンを積んでおり、その実力はかなりのもの。踊りだけでなく、歌もいい。これまで観たりCDで聴いたトレーシーは、ちょっとアニメ声がかったかわいい歌い方が多かったが、彼女の歌い方は本格的で、声量も十分。舞台にも出て、カルロッタとか演じてほしいほど。そしてもちろんチャーミングな、なんたって18歳だ。

そして力士のように太ったその母に、「グリース」以来29年ぶりのミュージカル映画出演となるジョン・トラボルタ。「サタデー・ナイト・フィーバー」の大スターから、鳴かず飛ばすの時期を経て、「パルプ・フィクション」で華麗に復活、個性派スターとして引っ張りだこになったと思いきや、新興宗教サイエントロジーの広告塔として「バトルフィールド・アース」という珍作を作っちまい、以来すっかりラズベリー賞の常連に。この人の人生は、映画以上に面白い。当然自分の大好きな役者だ。そのトラボルタが巨漢の女性に扮する。もうそれだけで期待にこちらの胸もふくらむというものだ。そしてスクリーンに登場したトラボルタは、ジョン・ウォーターズ版のディヴァインが明らかに男だったのに対し、驚いたことにきっちり女になりきっていた。それだけにかえってキモチ悪い。旧作がカラッした悪趣味なのに対し、これはねっとりした悪趣味だ。フィナーレでは微妙に「サタデー・ナイト・フィーバー」な動きや、「パルプ・フィクション」な動きもにじませつつ、キレがいいのか悪いのかよく分からないふしぎなおどりを披露。これは一見の価値があるのでぜひ劇場に足を運んでほしい。

トラボルタの夫役には「バットマン・リターンズ」でペンギンを操りバットマンと対峙した冷徹な悪役が印象的だったクリストファー・ウォーケンだ。「さえない男」のイメージがある同役には、ちょっと意外かつ豪華なキャスティングである。そしてそのクリストファー・ウォーケンを含むところあって誘惑しようとするテレビ局プロデューサーにミシェル・ファイファー。そう、「バットマン・リターンズ」でウォーケンに恋し、裏切られて殺されかかってキャットウーマンに転生したのが彼女だ。あの窓から突き落とすシーンは実に悲惨だっただけに、この2人のからむシーンを観ていると何となくほっとするのは俺だけではあるまい。ちなみに、元祖「さえない男」を旧作で演じたジェリー・スティラーはトレーシーをイメージキャラクターに起用するアパレル会社の社長として本作にも出演している。

ほか、映画版「シカゴ」のママ・モートンも記憶に新しいクイーン・ラティファも参加しており、実に豪華な顔ぶれで大ヒットミュージカルの映画化したわけだが、無論この映画はそれだけではない。"Mama, I'm a Big Girl Now"を大胆にカットするなど多少曲の入れ替えも行っているし(その代わり、エンディングで流しているあたりはさすが)、展開も少し変えてテンポをよくしている。"I Can Hear the Bells"は舞台版がいかにも舞台的な演出だったので、ここは逆に映像ならではの手法で見せてきた。このシーンは見ていて本当に楽しかった。そしてラストにもサプライズなヒネリを加えてきた。舞台の魅力を忠実に再現しながら、独自色を発揮するのにも成功している。

トラボルタのキモチ悪さ以外は、「毒気」はさらに抜かれた印象もある。その一方で、人種差別というテーマ性はより強調された。それによってますます政治的に正しい雰囲気になってしまった点には、この作品の悪趣味さを買っているファンとしてはやや複雑な気持ちもある。だが決して説教くさくなく、歌って踊れば人生は最高だよ!というマンマ・ミーアなフィナーレはある意味とてつもなくノウテンキであり、その無責任さはジョン・ウォーターズのアナーキーな作風に通じる、という解釈ができないこともない。

とにかく、ひとことで言えば楽しい映画。音楽も実に丁寧に作り込んであるので、ぜひ音響施設の優れた劇場で観ることをお勧めしたい。

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このピニール製のPOP、ちょっと欲しい。

映画「ヘアスプレー」公式サイト(音が出ます)
http://hairspray.gyao.jp/

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2007年8月 5日 (日)

「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生! / 電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー ネイネイ!ホウホウ!香港大決戦」

「特捜戦隊デカレンジャー」以来、日曜朝の番組は「響鬼」がちょっと面白かったぐらいでいまいちヒットがなかったが、今年は久しぶりに毎週欠かさず観るタイトルがある。「仮面ライダー電王」だ。

当初、制作が正式発表される前、そして基本的なコンセプトだけが明らかになった段階では、「こんどの仮面ライダーはバイクでなく電車に乗ってやってくる」という衝撃的な事実に大きな注目が集まった。「変身はスイカでするらしい」「電車がない沖縄ではどう戦うのか。移動はゆいレール沿線だけに限られるのか」とネット上でも虚々実々の議論がヒートアップした。

佳作になっている要因は、何といってもコメディータッチの作風が狙いどおりにツボにはまったことだろう。最初はなんか狙いすぎだなあ、というきらいもあったが、それが大ぶりにならずに着実に安打を重ねてくる。そのうちすっかりその雰囲気に愛着がわいてしまった。

最高なのが、時空を越える列車、「デンライナー」食堂車でのやりとりで、ここにいつも主人公と合体して仮面ライダーになる複数のイマジンという未来人たちが、文字通りだべっている。その狭い一室の雰囲気はさながら「部室」だ。ここでのイマジンたちの掛け合いが、声優たちの職人芸にも助けられ、上質のシチュエーション・コメディー(シットコム)のような面白さを醸し出すのだ。

このまま最後までシリアス路線でいくのかどうかは分からないが、途中で主人公の姉が婚約者をなくした悲しいエピソードが明らかになり、その婚約者と同じ名前の青年が登場したので、いよいよシリアスな展開になるのかと思ったら、ぜんぜんそんなことにはならなかったのでびっくりだ。それどころか、この青年と、お付きのイマジンがBLっぽい関係だったりして、ますますヘンな方向に向かいつつある。

さて、映画について。この映画は全体で100分ほどで、最初の30分ほどが「ゲキレンジャー」、残りが「電王」という構成になっており、途中休憩はない。

ここから先はばれますからご注意ください。

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実写版「トランスフォーマー」 私にいい考えがある!

あのトランスフォーマーが超大作映画になると聞いたときは、ハリウッドのネタ切れもいよいよ限界か、と思いつつも、ちょっと気にはなった。日本でアニメ版が放送されたのは85年だから当時自分は高校生だったが、意外に俺の周りで人気を集めており、よく話題になっていた。いかにもアメリカンな粗雑な作りでありながら(日米合作だったらしい)、クルマからロボットへ変形するシーンは実に動きがなめらかで、よく出来ているなあと感心したものだ。まあ日本ではその3年前に「超時空要塞マクロス」でガウォークを変形させていたわけだけど。また、なんといってもサイバトロン戦士のリーダー、コンボイ司令官のキャラクターが魅力的だった。後方から指示を出すよりも前線に出ていくことを好む、と言えば銀河英雄伝説のラインハルト様みたいでかっこいいが、コンボイの場合はただ無謀なだけだ。「私にいい考えがある!」と言っては作戦をハズし、自ら窮地に陥って、崖や高いところから落とされまくるちょっと頼りない司令官。それでも、こういうリーダーにならついていってもいいな、と思わせる妙な人徳のようなものを漂わせていた。

そしてスピルバーグがそこにからむということを聞き、さらに監督はマイケル・ベイになったと聞いたときは、がぜん観に行こうという気になった。スピルバーグは一時期社会派っぽくなっていたけど、アカデミー賞を撮ってからはもう満足したのか、すっかり本職であるバカ映画づくりにいそしんでくれているし、マイケル・ベイはどんな映画を撮ってもバカ映画になってしまう天才だ。「パール・ハーバー」が日米両国で酷評され、映画「チーム・アメリカ」では劇中歌で「『パール・ハーバー』はクソだ」と歌われていたのも記憶に新しい。

さらに駄目押し。ちゃんと映画にもコンボイ司令官(オプティマス・プライム)が登場し、日本語吹き替え版ではその声をアニメ版で長くコンボイを演じていた玄田哲章が担当するのだという。もうこれは行かなくてはいけない。

意気揚々と映画館へ。もちろん日本語吹き替え版をチョイス。以下ネタバレなのでご注意願います。

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2007年7月 1日 (日)

ブルース・ウィリス「ダイ・ハード4.0」

10年ぶりのダイ・ハード最新作。シルベスター・スタローンといい、ハリウッドのオジサンたちはすこぶる元気な今日このごろだ。

ダイ・ハードシリーズは一作目で築いたいくつかのお約束をきっちり守っている。限られた空間と限られた時間で事件が起き、それを解決する。悪役はただのドロボウ。かならず主人公にクセはあるが頼りになる相棒がつく・・・といった具合。それらがいずれも独特の面白さにつながっていて、アクション映画としての面白さとうまくからみあうところにこのシリーズの魅力がある。

今回、監督に大抜擢された新鋭レン・ワイズマンも、そのメソッドを忠実に守ろうという姿勢が強く感じられた。「限られた空間」は、ダイ・ハード3ではニューヨーク全体をひとつの空間としてとらえていたが、今回はサイバー空間でつながった全米がひとつの空間になる。それでは「限られた」にならんだろう、という人もいるかもしれないが、映画の中でそういう見せ方をしている、ということが肝心なのだ。

しかしプロデューサーの意向か、アクションはもちろん、交通システムの麻痺によるパニックやヘリコプターのみならず戦闘機まで出てくる空中戦など、ど派手なシーンが満載で、どうもその「ダイ・ハードらしさ」が影に隠れてしまった印象がある。一作目の、実は装甲車を破壊するシーン以外あまり派手なシーンがないのにゴージャスな印象をもたらしていたあのうまい映画づくりの手法をもっと見たかった自分にとってはやや残念だった。しかし、逆にダイ・ハードといえばアクション、という印象のファンには、十分以上に期待に応えてくれる作品だ。2時間10分、ノンストップで素晴らしいアクションを見せてくれる。

ブルース・ウィリスの年齢を考えれば、アクション控えめ、演出重視のほうが作りやすかっただろうに、あえてその逆を行ったチャレンジ精神は高く評価したい。続編ものが多いことは、ますますハリウッドが保守化しつつある証明ではあるが、そういう中でもこうした意欲作が生まれてくるあたりは、さすがハリウッドと言うべきだろう。

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「ダイ・ハード4.0」のWEBサイト(いきなり奴がしゃべります)

http://movies.foxjapan.com/diehard4/

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2007年6月24日 (日)

「キサラギ」遅れて来たアイドル映画

予告編など見てちょっと観たいなあ、と思っていた「キサラギ」。公開1週間でかなりの高評価を集めているようなので、これはやはり見逃せないと出かけて行った。

謎の自殺を遂げたグラビアアイドルの一周忌に集まった5人のファン。その会話の中から意外な事実が次々と飛び出し、次第にその死の真相が明らかになっていくという、なかなかそそられる設定。サスペンスでもあり、コメディーでもある密室劇は、さながら三谷幸喜の「十二人の優しい日本人」のようだ。監督は「シムソンズ」の佐藤祐一、脚本は「ALWAYS  三丁目の夕日」の古沢良太。主演は小栗旬、ユースケ・サンタマリア、小出恵介、塚地武雅、香川照之と、これまたそそられる演技派&個性派のそろった豪華な顔ぶれだ。

観終わった直後の感想。ウーム、これは素晴らしい!今後上映館も拡大していくようなので、ぜひご覧になることをお勧めしたい。

この映画はネタバレするとほとんど観る意味を失うので、少しでも観る可能性のある人はこの先は絶対読まないでください。

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2007年5月20日 (日)

「スパイダーマン3」レオパルドンさえあれば・・・

ゴールデンウイークは異様に元気だったが、会社が始まった瞬間体調が悪くなった。典型的な怠け者体質だ。

それはなんとか回復してきたものの、6月は例の魔女の物語やら、フランス革命のミュージカルやらがあり、遠征の計画もあったりして物入りになりそうだから、今月はじっと息を潜めていなくてはならない。おとなしく近所で映画でも観よう、と「スパイダーマン3」へ。

もう公開から3週間も経っているので今更問題ないでしょうが、一応ばれるのでここで宣言しておきます。

最初に観賞後の印象を言えば、とてもハッピーになれる映画だった。

物語は必ずしもハッピーエンドではないが、「ああ、映画って楽しいなあ」としみじみ感じさせてくれる快作である。

これぞエンターテイメントの手本、というべき作品。もっともそのぶん、一作目、二作目で色濃かった、B級ホラーの名匠としてならしたサム・ライミらしい悪趣味な演出がややなりを潜めた感じがあり、少し寂しいところではあるが。

公開前のマーケティングも含めて、このシリーズは「大作」然としていないところがいい。実際には空前の制作費が投入されている、頭に超をもうひとつつけたくなるような超大作なのに、である。あくまで、大味でいい加減なアメコミのテイストを守っているのだ。恐らくそれはシリーズ開始時から意識されていることであり、サム・ライミの起用もそのあたりを狙ってのことかもしれない。結果的にそれが大当たりしているのだから、凋落が激しいハリウッドも、その戦略レベルの構想力は健在ということだろう。例えハリウッドが消滅しても、そのノウハウはどこかに継承されるべきだ。

とにかく、土曜ワイド劇場並みに観ていて気楽である。今回は「復讐」がテーマであり、ピーター・パーカー(スパイダーマン)が、叔父を殺害した犯人への恨みを、ハリー・オズボーンが、父(グリーンゴブリン)を倒したスパイダーマンへの恨みを、それぞれどう乗り越えていくか、ということを描く、まるで菊池寛の「恩讐の彼方に」みたいな話なのであるが、あまり深刻な展開は見せず、比較的あっさりと乗り越えてしまう。またシリーズを通じて繰り広げられるピーターとメリージェーン、そしてハリーの恋の行方も、映画の中の人たちはえらく真剣に悩んでいるが、ほとんどビバリーヒルズ高校生白書(青春白書でなく)なみの他愛ない三角関係だ。しかも復讐劇も恋愛劇も、なんだかんだやっているうちにいつの間にか3人の友情の物語になってしまっている。この展開の安易さは、許せない人には許せないかも。俺は許すよ。むしろ、その安易な展開を派手なアクションで強引に説得させてしまう手腕は見事だと思うほどだ。

そして、さまざまなお約束を決して違えることなく、折り目正しく守るのもいい。都合よく起きる事件、意味もなく事件に巻き込まれる美女、悪の力を得て分かりやすく調子に乗る主人公、おおよその人間ドラマをきれいに片づけた上で後顧の憂いなく始まるクライマックス、絶対絶命のピンチに登場する助っ人……。もう土曜ワイド劇場どころか、水戸黄門なみの安定感だ。

その安心感があるからこそ、観客は心置きなくこの映画の世界に遊ぶことができる。これが、エンターテインメントの手本と表現したゆえんだ。

それにしても、クライマックスで助っ人が登場し、共に戦う場面は良かった。スパイダーマンの魅力は、ピンチになっても軽口を叩くことを忘れない、アメリカ人っぽいというより江戸っ子のような洒脱さにもあると思う。それが、前作ではどうも悩んでばかりであまり見られなかった。その軽口が今回、友と戦いながら交わされ、何とも「スパイダーマンらしさ」を醸し出していた。スパイダーマンのふざけた口の利き方は、ぜひユニバーサル・スタジオ・ジャパンの「アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド」で体験してほしい。きっとスパイダーマンをもっと好きになる。

ところで、このシリーズは今後も続くのだろうか。自分としては、スタッフやキャストが変わってもいいから続けてほしいところだ。ぜひ次回は、メリージェーンがファイヤースターに、そしてハリーがアイスマンになって、「スパイダーマン&アメイジング・フレンズ」として3人で敵と戦う、というのを希望だ。

おまけ1
サンドマンが大量の砂で巨大化するのを見て「レオパルドンを出せ!」と心の中で叫んだのは俺だけではないはず。

おまけ2
今回のMVPは、フランス料理店のギャルソンと、エンドロールで「Girl with camera」と紹介された子役だと思う。

おまけ3
メリージェーンが出演したブロードウェイの劇場、内部はともかく劇場前のシーンは実際にニューヨークでロケされたものだろうか。だとすると向こうに「オペラ座の怪人」の看板が見えたので、Majestic Theaterの手前、つまり現在レ・ミゼラブルを上演中のBroadhurst Theaterということになる。向かい側で「プロデューサーズ」を上演しているのも、位置的には正しい。ただ、その隣に「ジャージーボーイズ」の看板が見えていた。あれが宣伝用の看板でないとすると、同作品を上演しているのはもっと北だから、つじつまが合わない。DVDが発売されたら、じっくり確認してみることにしよう。そのためにまた現地に行ったりして。

Venom

スパイダーマン3のWEBサイト
http://www.sonypictures.jp/movies/spider-man3/index.html

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2007年3月11日 (日)

ニコラス・ケイジ「ゴーストライダー」

ニコラス・ケイジの馬鹿映画。それ以外に語るべき要素が見当たらない。しかし、それ以外に何を語る必要があるというのだ!

あえて語ると、これは悪魔の力を身に付けた中年仮面ライダーがアメリカで大暴れする話だ。もうこれでだいたいこの映画のことは語り尽くしてしまった。

アメコミの映画化だが、どこかあの大傑作・実写版「デビルマン」のようでもあるし、「仮面ライダー電王」のイマジンみたいのも出てくるし、クライマックスは菅野美穂も出てた吉野公佳版「エコエコアザラク」を思い出させるし、ガメラと闘った「レギオン(群れをなすもの)」という言葉も登場する。なんだかとっても親近感を覚えるようなそうでもないような、観ていて妙に居心地の悪い感触が心地良い。

おっと大事なことを忘れていた。この映画はニコラス・ケイジだけでなく、ピーター・フォンダの馬鹿映画でもある。ピーター・フォンダは「イージー・ライダー」で映画史に残るスターになったのに、「キャノンボール」「だいじょうぶマイフレンド」「エスケープ・フロム・L.A.」と、時代を代表する馬鹿映画には必ず顔を出す。これは好きこのんでやっているとしか思えない。彼こそまさしくハリウッドの長門裕之だ。

それにしても革ジャンに身をつつみ、バイクにまたがったニコラス・ケイジはお世辞にも格好いいとは言えず、それによって中年の悲哀が前面に出ている。これは狙ったものだろう。しかしあの髪型はモト冬樹の「ヅラ刑事」を彷彿とさせる明らかなカツラで、いつそれが飛んでしまうのかハラハラドキドキしながら観ていた(この映画で手に汗握れるのはそこだけだ)。モト冬樹は先日のニコラス・ケイジ来日記者会見でゲストとして登場したそうだが、「ヅラ刑事2」を作るならぜひニコラス・ケイジに出演してほしいものだ。

とにかく、自分のような馬鹿映画を喜んで見る人間か、中年好きの腐女子以外にはお勧めできない素晴らしい映画だ。先日の「デッド・オア・アライブ」といい、今年は映画の当たり年である。

帰りがけに、この映画のポスターが眼に止まった。

なにやら「歴代新記録」という文字が見える。すぐに震撼する全米は、新作が公開されるたびに何らかの歴代記録を更新しているが、こんなクソ映画でも更新できるのはどんな記録だろう?

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どうせ無理矢理なんだろう、と思いつつ近付いてみると・・・

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無理矢理すぎだろ。

 

 

「ゴーストライダー」のWEBサイト
http://www.sonypictures.jp/movies/ghostrider/

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2007年2月25日 (日)

映画「デッド・オア・アライブ」うわ、これ馬鹿だよ

こりゃまたケッコーな馬鹿っぷり。ブラボーだ。

ゲーム業界に「乳揺れゲー」という用語がいつ出来たのかは知らないが、現段階で間違いなくその筆頭であるテクモの人気格闘ゲームシリーズ「デッド・オア・アライブ(DOA)」の映画化。DOAは単に揺れるのがいいのではなく、CGで描かれた女性キャラクターがいずれも魅力的なのがいいのだ。格闘は三の次。2003年にXboxソフトとして発売された「DOA XTREME BEACH VOLLEYBALL」に至っては、美女軍団が格闘もせず新しい水着を求めてビーチバレーに興じる。自分はこのソフトのためにXboxを購入したが、結局それ以外のソフトを買うことなく、専用機としてその使命を終えた。このほどXbox360ソフトとしてその続編が発売されたので、また専用機を買うかどうか、悩んでいる。

さてそんなゲームの世界をスクリーンに展開したのは、香港映画の監督の中でも、とりわけ香港映画度の高い監督であるコーリー・ユンだ。ジョン・ウーのようにスタイリッシュな映像作家になるわけでもなく、チャウ・シンチーのように馬鹿馬鹿しさを極めることでひとつの完成された世界を作るわけでもなく、ただ単に馬鹿馬鹿しい映画を作り続けている逸材だ。日本では、1982年に真田広之の世界進出作品「龍の忍者」を監督し、衝撃を与えた。忍者が主役だがいったいどこの国かいつの時代かよくわからず、ぬるいギャグとカンフーアクションが雑然と並べられた本当にひどい映画だった。あれから25年も経つというのに、この監督は全く成長していない。素晴らしい。尊敬に値する。

今回の作品でも、70年代に逆戻りしたような勢いのある香港映画パワーをいかんなく発揮してくれた。主人公(とは言えないかもしれないが)かすみは日本の出身(ちゃんと字幕で「石狩山脈」と出てくる←どこだよ!)なのに、その住居(城?)は明らかに中国の宮殿。欧米の監督ならともかく、香港出身の監督で何でこんなことが起きる?これは確信犯、というより、そのほうが面白いと思っているのか、あるいはどうでもいいと思っているのか、そんな理由なのだ。とにかくほとんど前置きもなく、モモタロスのようにいきなりクライマックスで始まったかと思うと、格闘→下着→格闘→水着→格闘→入浴→格闘という最強コンボの繰り返しで最後まで行ってしまう。しかもビーチバレーのおまけつき。説明的なシーンは皆無に等しいが、それでも一応ストーリーらしきものはできているから恐ろしい。CGを無駄遣いした格闘シーンもそれなりに美しく、飽きさせない。水着や下着はもちろん、全体的に露出度の高い衣裳もグッドだ。上映時間が1時間26分と短いのもいい。だいたい最近の映画は長すぎるのだ。

ゲームの映画化、というと、成功した例もあれば失敗した例もあるからひとくくりにはできない。しかし、格闘ゲームの映画化といえば、「ユニバG」のCMで有名なジャン・クロード・ヴァン・ダム主演の「ストリートファイター」を思い出す。あれは明らかに失敗だった。ゲームの色彩を中途半端に出そうとしたこと、そして「ハリウッド映画」の枠に縛られたことで、どうしようもない駄作になってしまった。それに比べると、今回は映画として無茶苦茶ではあるが、映画の世界観をきっちりと再現することで成功を納めている。まあその世界観が「エッチでファイト」だから再現しやすかったのかもしれないが。だからキャラクター設定が多少異なっていても、あまり違和感を感じない。清楚さのないかすみ、殺し屋ではなく泥棒のクリスティ、天然のエレナ、コスプレ腐女子にしか見えないあやね……。しかしなぜかティナとザックだけは驚くほどゲームのままだった。そこそこ年齢は行っているが、みなかわいらしく、カッコよく、そしてセクシーなファイターになりきっていた。

かすみが中国風になってしまったために、キャラがかぶるから、という理由で(想像)ちょい役に回ってしまったレイファン、そもそも出番のなかったヒトミなどのファンは欲求不満だろうが、ハードなキャラ萌えでなければDOAファンにも納得の出来ではないかと思う。特に、自分のように純粋に不純な気持ちでゲームをしていた者にとっては「分かっているじゃないか、君!」と監督の肩でも叩きたくなるような気分だ。スケベ心は世界の共通語である。

かつて、「お笑いスター誕生」で、でんでんが「オッパイは成功のもと」というギャグで会場の失笑を買い、銀賞(5週勝ち抜き)を逃したことがあった。しかし、テクモはこのソフトの成功によって世界的な企業になったのだから、格言としてはあながち間違っていなかったわけだ。

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デッド・オア・アライブ 公式サイト
http://www.doa-movie.jp/

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アル・ゴア「不都合な真実」

面白くない映画だ。

ただゴアが演説してるだけの映画だということは知っていた。そのつまらない題材を、どう面白くするのか興味があり、足を運んだのだ。

ところが、そこには何の工夫もなかった。地球温暖化の問題が重要なのは当たり前だ。それを多くの人に分かってもらうために、映画というエンターテインメントの手法を採ったことも理解できる。しかし、これでは映画になっていない。だから映画として評価することはできない。

「華氏911」がカンヌを取ったとき、審査員のクエンティン・タランティーノは「政治なんて関係ない。君の映画が面白かったから選んだ」とマイケル・ムーアに言ったという。その点、この映画は全く面白くない。

ただ、演説そのものは、うまくできている。なるほどプレゼン資料というものはこう作るのか、と感心もした。そして、恐らくゴアはアメリカの政治家としては演説はうまいほうではないんだろう。それをカバーするために、ブレーンやスタッフたちが開発したのが、このプレゼンスタイルなのだ。プレゼンテーションは、その人の個性に合わせて演出することが肝心だということもよく分かった。

だが、何の工夫もなく、その映像を撮っただけの映画を、映画と呼べるほど自分は寛容ではない。これはDVD化して、世界中に無料配布するべきものだろう。そのテーマは本当に大切なことなのだから。

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「不都合な真実」のWEBサイト

http://www.futsugou.jp/main.html

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2006年11月12日 (日)

映画「時をかける少女」

今年は「涼宮ハルヒの憂鬱」のおかげで、かつて筒井康隆や豊田有恒、眉村卓らが作り上げられた日本独特のSFジュブナイル文化が現在のコンテンツ産業の根幹にあることを考えさせられた。

そこに、SFジュブナイルの最高傑作とも言われる「時をかける少女」がアニメーションで復活。なにやら時代がひとつの方向を向いているようだ。

「時をかける少女」といえば、大林宣彦監督の映画版が有名だが、それが「ジュブナイル最高」の称号を得たのは、NHKの「少年ドラマシリーズ」で「タイム・トラベラー」として映像化され、それが多くの人の心に残ったことが大きい。今回の映画のパンフレットによれば、同ドラマは最終回以外の映像が紛失しているそうで、もう観ることはできないのだそうだ。なんとも残念だ。

さて、この映画は原作の姪にあたる女子高生を主役に据えたオリジナルストーリーだ。しかし主人公に2人の男子が絡み、そのうち1人が未来からの旅行者であるなど、原作のエッセンスが生かされている。

詩的な映像で綴った大林版とは異なり、貞本義行がデザインを手がけたキャラクターとスピーディーな演出で、アップテンポに楽しく展開していく。「時をかける少女」は、時間航行を素材にした作品では避けて通れないタイム・パラドックスをきちんと整理し、物語の中に破綻亡く収斂させている点において、優れたSF作品である。この映画でも、やや大風呂敷を広げながら、最後にはきちんとつじつまを合わせており、SFとしての折り目を守っている。そして同時に、澄んだ映像と緻密な背景描写、フレッシュなキャストらにより、高校生映画らしいみずみずしさを十分に演出している。これはSFジュブナイルの映画としては大成功ではないか。今年は邦画がなかなかの当たり年だが、これも豊作のラインナップに加えていいだろう。

さて、この映画を見ていて、ある作品との奇妙な符号に気付いた。1980年代後半、家庭用ビデオデッキの普及とともに一大AVブームが生まれたが、数多くのソフトイメージ路線作品でブームをけん引した宇宙企画の88年作品「サイキック・セーラー・ファンタジー 超少女ちゆきが行く」である。多くのエキストラと制作日数を費やしたこの大作AVでデビューした牧本千幸は一躍トップアイドルとなり、その後つかもと友希と名を変えて90年代後半まで活躍することになる。

その「超少女ちゆきが行く」は、明らかに大林宣彦版の「時をかける少女」のパロディーなのだが、その中のいくつかの演出上の要素が、奇妙なまでに今回の映画と一致しているのである。

短期間で何回もタイム・リープを繰り返す主人公や、勢いをつけて登場し、体操選手のように決めポーズをとるあたりにその符合を見て取れるが、決定的なのは物語の重要な場面で何回も登場する「分かれ道」だ。

「超少女~」にも、やはり分かれ道が登場し、主人公は何度もこの分かれ道を通行する。

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別に今回の作品がAVをぱくったわけではない。調べてみたところ、監督の細田守は「おジャ魔女どれみ ドッカ~ン」の中でも分かれ道を効果的に用いた演出をしているのだそうだ。分かれ道には思い入れのある人らしい。

面白いのは、メディアも時代も全く異なるクリエイティブチームが、同じ原作と映画からインスパイアされ、同じ演出に帰結している点だ。つまり、80年代末のAV界には、現在のコンテンツ界の最前線にいるクリエーターと同じ感性を持っていた人物がいたということである。

周防正行ら、ピンク映画出身の監督が現在の日本映画を支えているように、AV出身のクリエーターが活躍してもいいのではないか。しかしそんな話はあまり聞かないのはなぜだろう。みやすのんき作の「冒険してもいい頃」はAV助監督から映画監督を目差す青年が主人公だったが……。

「時をかける少女」のWEBサイト

http://www.kadokawa.co.jp/tokikake/

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2006年11月 3日 (金)

映画「デスノート the Last name」(大バレ)

実に残念だ。

自分はマンガや小説を映画化した作品を観ても、なるべく「原作に忠実かどうか」という尺度では測らないようにしている。メディアが異なれば作品も変わるのは当然で、比較するのがナンセンスだ。

しかし、それでもなお、外してはいけない原作の要素、というものがあるだろう。

いよいよ公開された映画「デスノート the Last name」。言うまでもなく春に公開され大ヒットとなった映画「デスノート」の後編だ。前編の出来が良かっただけに、期待は大きかった。

問題は弥海砂(あまね・みさ=ミサミサ、戸田恵梨香)が初めて夜神月(やがみ・らいと=キラ、藤原竜也)の家を訪れ、階段を上がっていくシーン。

パンツが見えていないではないか。

これには激しい怒りを覚えた。前編から楽しみにしていたのに。別に戸田恵梨香のパンツが見たくて言っているわけじゃない。満島ひかり演じる夜神粧裕(やがみ・さゆ)の「パンツ見えちゃってるし……」というセリフが聞けなかったことが極めて残念だったのだ。

 

 

 

しかし、それ以外は完璧な作品。

傑作である。

原作の圧倒的な情報量に支えられた、“予測不可能”のストーリーをギュッと凝縮し、それでいて破綻なく、かつ映画という途中で止めて考えることのできないメディアでも無理なく理解できるように仕立て上げた脚本がまずお見事。原作に敬意を表し、その世界観を尊重しつつも、映画独自の視点-金子修介監督によれば「大人の視点」ということなのだそうだが-を加えているが、そのバランスがよく、原作ファン、映画ファン双方に満足のいく仕上がりになっている。

前編のラスト、見事な切り返しでドローに終わった月とLとの対決。後編は期待どおり、冒頭から2人の丁々発止の心理戦が炸裂し、観客は瞬間的に映画の世界に、そしてデスノートの世界に引っ張り込まれる。

戸田、藤原、そしてLを演じた松山ケンイチ。この主役3人の演技が前編にも増してすばらしい。それぞれの役に求められる要素を消化し、表現として人物像を明確に描き出している。当然、原作とは微妙にずれることになり、「こんなのLじゃない」という声も上がるだろう。しかし、いずれも原作に劣らない魅力あふれるキャラクターになった。

「原作にはない衝撃の結末」も、原作の3人ならああいうことにはならないような気がするが、この映画の中の3人ならなるほど、と納得できるようになっている。好き嫌いはあるだろうが、どちらかというとベタな演出をこのむ自分としては大満足だ。

ちょっと仕事のできそうな出目川や、清楚ではない高田清美など、脚本段階で原作とは違った位置づけになっているキャラクターも、実にきれいにはめ込まれていて感心した。

ベテランの味を十二分に発揮し、「出色の出来」と評された(俺から)鹿賀丈史は、ちょっと美味しいところを持ってき過ぎか?しかしそれこそが金子監督の狙いなのだから仕方がない。あの敬礼は心に響いた。敬礼、というのは日本映画の重要な感動アイテムである。代表的なのは「八甲田山」で、部隊を救ってくれた案内人(秋吉久美子)に徳島大尉(高倉健)が敬礼をするシーンだ。最近では昨年の土曜ワイド劇場「火災調査官・紅蓮次郎 燃える雪と燃えない死体! 工場大爆発が暴く灰の中の嘘?」で蓮次郎(船越英一郎)が連行されていくかつての恩師(小林幸子)の背中に向けた敬礼も印象的だった。金子修介もここぞという時に敬礼を用いる。マニア受けはいまいちだったが、高い評価を下す人もいる「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」のラストシーンでは、宇崎竜童演じる自衛隊幹部が、怪獣と闘って命を落とした兵士たちのために海に向かって敬礼する。あれは感動的だった。

主題歌は前編に続きレッド・ホット・チリ・ペッパーズ。前編の「ダニー・カリフォルニア」は何かが始まる予感を促す名曲だったが、今回のラストに流れる「スノー」は、物語の結末ときれいにマッチするやや悲しさを秘めた曲だ。これも印象的で良かった。

あえてケチをつけるなら、上映終了後、わずかな違和感が自分の中に残った。それは、「エヴァンゲリオン」の劇場版(『THE END OF EVANGELION Air / まごころを、君に』)を観たときと同じものだ。大いに満足し、納得しながらも、「傑作」に終わってしまったことへのぜいたくな不平だ。エヴァの場合は、テレビ版のでたらめな終わり方があったからこそ「伝説」になりえた。それをわざわざ修正して「傑作」に戻さなくてもよかったかな、と思ったのだ。

駄作を凡作に、凡作を佳作に、佳作を傑作にするのは、ひとつひとついいものを積み上げていけばいい。しかし傑作が伝説に突き抜けるためには、積み上げたものから足を踏み外さなくてはならない。この映画も、前編で大いに期待させ、後編がハチャメチャ(死語)なものになったら、それが伝説になったかもしれない。そのほうが、リューク的には「面白!」だろう。

しかし、そんな死神の目で映画を観るよりも、いいものはいい、と素直に受け入れたほうが楽しい。ひとつ厳しい評論でもしたほうがブログらしいのだろうが、ここは日本のコンテンツ産業がこれほど良質なものを生み出せたということに、快哉を叫びたい。ちょうど、ラストシーンで何かに笑い続けるリュークのようにだ。

昨年は「頭文字D」を観て、歯ぎしりほどの悔しさを味わった。日本のマンガを原作に、日本でロケして創られた傑作映画が、日本映画ではなく香港映画という現実。あのときは本当に暗鬱とした気分になった。しかし、この「デスノート」は香港でも大ヒットしているという。香港映画大好きな自分としてはケンカを売るつもりはないが、ちょっとだけうっぷんを晴らすことができた。今後、こうした作品に刺激されもっと面白い作品が様々なジャンルで出てきてくれることを心から願う。

最後に、パンフレットを読んで感じた、ちょっと期待を込めた予感。

来年あたり、日本テレビがスペシャルドラマとして松山ケンイチ主演の「ロサンゼルスBB連続殺人事件」を放送するような気がする。

Dnln

映画「デスノート the Last name」のWEBサイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/deathnote/

前編についてのエントリー

http://kingdom.cocolog-nifty.com/dokimemo/2006/06/40_ed59.html

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2006年10月29日 (日)

河崎実×モト冬樹「ヅラ刑事」

「日本以外全部沈没」を観た日に、同じ河崎実監督の「ヅラ刑事」を鑑賞。どちらも単館系、しかもまともな時間に上映していないものだから、「日本以外」はモーニングショー、「ヅラ」はレイトショーという体力的にはきつい2本立てだ。どちらも渋谷で上映中なので、遠方の人はレイトショーで「ヅラ」を観て、一泊してモーニングショーで「日本以外」を観るといいのではないか。

さてこの「ヅラ刑事」は、カツラを投げて敵を倒し、犯罪者を逮捕するという刑事の活躍を描いた刑事ドラマである。特撮マニアである河崎が「カツラをウルトラセブンのアイ・スラッガーのように投げたら面白い」と思いついたところからこの企画が始まったという。

小さいころ「ウルトラセブン」を観ていた人なら、アイ・スラッガーを投げたウルトラセブンがかなり残念な容姿になることはみな知っている。しかしその記憶だけでなく、その残念な印象を大人になるまで保ち続けているあたりが、河崎の非凡さを示すところだ。

この映画は「太陽にほえろ!」をはじめ、数々の刑事ドラマへのオマージュになっており、ヅラ、チビ、デブ、デカチンといった、地上波ドラマではあり得ないアダ名を持つ刑事たちが、チームワークで難事件に挑む。それぞれの肉体的な特性を生かした活躍がみどころのひとつだ。

その中でも、主役の「ヅラ」こと源田初男役であるモト冬樹が素晴らしい演技を見せている。凄腕でありながら、組織になじめず異動を繰り返すアウトロー、しかし決して周囲を威圧するわけではなく、むしろ溶け込もうと努力する中年男の哀愁を、どこか居心地の悪そうな表情と、押さえた演技で見事に表現している。驚いたことには、観ているうちに、だんだんこの男が格好良く見えてくる。最後、犯人をパトカーに乗せるシーンでは、不覚にも少し感動してしまった。

主題歌「悲しみはヅラで飛ばせ」を歌うのももちろんモト冬樹。歌のうまさも手伝って、一度聞いたら頭から離れない名曲に仕上がっている。曲調は「大都会パートⅢ」の「日暮れ坂」を思い出させるバラードだ。

♪人はヅラを かぶるときに 頭に蓋をする~

この映画を見たら最後、このフレーズが少なくとも家に帰るまで、ひどいときには翌朝目が覚めても、頭の中で繰り返されることうけあいだ。

Dura

ヅラ刑事のWEBサイト(主題歌が流れます)
http://www.duradeka.com/

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河崎実×筒井康隆「日本以外全部沈没」

70年代、8mmで特撮映画を作るアマチュア監督として知られ、80年代にプロデビューしてからは「地球防衛少女イコちゃん」「電エース」などの特撮、「飛び出せ!全裸学園」といったお色気作品で鳴らし、近年は「いかレスラー」のヒットによってすっかりメジャーになった、河崎実。その才能があるんだかないんだか分からないカルトの名匠が、筒井康隆が1974年に書いたショート・ショート「日本以外全部沈没」を映画化した。

河崎の作風は、これだけキャリアが長いにもかかわらず、素人っぽさが抜けきらないところに特徴がある。意識的なものだとは思うが、「学園祭の映画にしてはよく出来ている」という雰囲気を20年も保ち続けるのは並の能力ではない。

今回も、原作の世界観~日本以外の国が沈没し、各国のVIPや難民たちで日本中にあふれかえる~をベースにしつつオリジナルストーリーを組み立て、河崎らしいどうでもいいくだらない映画に仕上がっている。全編に散りばめられた、外国人をネタにした毒のある、というより極めて有害なギャグも、爆笑を誘うというより、にやにやさせる程度の中途半端な笑いを提供するにとどまる。実に期待どおりだ。

ばかばかしい映画のファンにはオススメの秀作だが、反社会的なギャグの嫌いな人は避けたほうが無難。大川興業の「ウィーン電動こけし合唱団」とか好きな人には気に入っていただけるのではないか。

ところで、この原作「日本以外全部沈没」は、小松左京の「日本沈没」が超ベストセラーとなったときに、半ば冗談で書かれたものだが、その冗談を言ったのは、星真一なのだそうだ。日本のSF文化を築き上げた御三家、個人的にも大の親友として知られる3人のインスピレーションの結晶という意味では、貴重な作品だ。

考えてみると、彼らに加え豊田有恒、眉村卓といった先人達が切り開いてきた日本SFは、日本文学のメインストリームを外れた部分、パロディーやエログロ、ジュブナイルといったものを一手に引き受けてきたように思う。かつて筒井はエッセイの中で、作家のパーティーに行ってもSFの面々は隅のほうに集まり「あの人作家、俺たちSF」という雰囲気になる、と語っていたが、よく言えば在野精神、悪く言えばひねくれ根性が、日本SFの底流に流れている。それが何でもどん欲に取り込む、悪食的な性質をもたらしたのだろう。

しかし、それは現在世界的にも注目されている日本のサブカルチャーの形成において、極めて重要な役割を演じてきたのではないか。海外のコミックやアニメーションの素材やモチーフがきわめて貧相なのに比べ、日本のそれは何でもありの世界だ。また、その多くはSF(厳密には、ファンタジーと言うべきなのだろうが)である。「SFなら、何をやってもいい」という意識が、純粋なSFを愛する人達の意向に反して、日本には浸透している。また、もっと直接的な現象として、日本SF界の重鎮の作品で育ったクリエーターが、現在日本のコンテンツ産業を引っ張っていることも見過ごせない。「涼宮ハルヒの憂鬱」(小説・アニメ両方)の中で、主人公が唐突に「少年エスパー戦隊」と口にするシーンがある。言うまでもなく、1976年に豊田有恒が発表したSFジュブナイルの傑作だ。作者が子供のころそのファンだったことは疑いようもない。

SFジュブナイルのオタク文化の中での位置づけについては、また別の機会により深く考えてみたい。

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「日本以外全部沈没」のWEBサイト
http://www.all-chinbotsu.com/

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2006年10月22日 (日)

松雪泰子・蒼井優「フラガール」

公開後、評判が広がり好調な動員を記録している「フラガール」。自分も面白いと聞いて劇場に足を運んでみた。

なるほど、これは秀作だ。

この映画のモチーフであるフラダンス(「フラ」に踊りという意味も含まれているので、こう言うのは間違いらしい)は、そのまま映画のテーマにもなっている。

フラは、動作ひとつひとつが手話のように何らかの意味を表しているという。そして言葉以外で、人はどうやって気持ちを伝えられるのか。それがこの映画のテーマだ。

登場人物たちは、みな決して無口ではない。女も男も、思いついたことをぽんぽんと口にし、理路整然と主張を展開する。なのに、肝心な場面になるとうまく自分の気持ちを伝えられない。その溝を、フラという踊りがきれいに埋めていく。

教室で、駅のホームで、そしてオープンしたハワイアンセンターで、百のセリフよりも説得力のあるフラのシーンが繰り広げられ、映画を観る者の心を動かす。フラの魅力を、うまく映画の中に引き出した構成力が見事だ。

ハワイアンセンターの建設は、閉鎖していく炭鉱の町にハワイを作って雇用を確保するという、起死回生のプロジェクトだった。そこに描きたいことはたくさんあっただろうが、フラと女性たち以外のエピソードの描写は最低限にとどめ、内容を絞り込んだ点にも好感を持った。

「夜のピクニック」とともに、この秋はなぜか常磐線沿線映画が盛り上がっている。水戸→柏市民としては、大いに喜ばしいことだ。

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「フラガール」のWEBサイト

http://www.hula-girl.jp/

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2006年10月 8日 (日)

映画「夜のピクニック」

映画「夜のピクニック」が映画化された。

原作は、「博士の愛した数式」「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」などを選出し、新たな文芸賞として注目を集めている「本屋大賞」の第2回受賞作だ。吉川英治文学新人賞も受賞している。

しかし、自分がこの映画を見に行く動機はほかにある。物語の舞台となるイベント「歩行祭」とは、自分の母校である水戸第一高等学校の伝統行事「歩く会」がモデルなのだ。

原作の作者である恩田陸もやはりOB。だから当然「歩行祭」の描写にはリアリティがある。それを、茨城オールロケで、コースも実際の「歩く会」のコースの1つ(コースは全部で3つある)をベースに組み立てて撮影、もちろんわが母校も登場、と聞けば、これは観にいかない訳にはいかない。個人的には、小説がそのモデルとなった舞台をリアルに描写する必要も、映画が原作に忠実である必要も感じていないのだが、この作品はどうもそのあたりに徹底して力を入れているようだ。

そして実際に上映を観た感想。

予想以上に、「歩く会」の映画だ。「歩行祭」をモチーフとして、高校生たちの心の機微を描いた作品かと思ったら、逆だった。高校生たちは、あくまで脇役。この映画の主役は「歩行祭」である。

とにかく、団体歩行の雰囲気や、小休止、大休止の様子、父兄や近所の方々の応援、実行委員会の活躍、各クラスの先頭の人が持つ「のぼり」や懐中電灯といった小道具まで、実にリアルに再現されている。もちろん、「ジャージの色がタマゴ色じゃない」「深夜の団体歩行は男女が分けられているハズ」と些細な違いはあるが、そんなマニアックな突っ込みを入れたくなるほど、リアルに描かれているのだ。

そして、オールロケだから茨城の風景もリアルだ。茨城には、袋田の滝を除けば、派手な観光名所はあまりない。この県の原風景は、日本全国どこにでもあるような田園風景(といっても、『見渡す限りの~』というほどでもなく、適度に住宅なんかも視野に入るようなもの)とか、小川やそこにかかる橋、鉄道、住宅地といった、何のへんてつもないものだ。それを、必要以上に美化せずにスクリーンに納めているのに好感を持った。それが「歩行祭」のリアルさを一層強調している。

映画の構成も、「歩行祭」のスタートに始まりゴールで終わっており、ストーリーの展開上必要な過去のシーンはすべて会話や回想の中で展開する。

この映画の監督は、堺雅人の演じる奇妙なサラリーマンが印象的だった「ココニイルコト」の長澤雅彦。彼は、一体どうしてここまで「歩行祭」を詳細に描くことに執着したのか。

恐らく、ただえんえんと、夜を通して歩くだけという酔狂の極みのような「歩く会」というイベントに、特殊性以外の何かを見いだしたからだろう。単に主人公たちの心理的動揺のきっかけとしてなら、のべ5000人ものエキストラを動員し、40日間にも及ぶロケを敢行するのは明らかに度を超えている。

その「何か」を観客が感じ取れるかどうかが、この映画のカギだ。残念ながら、自分を含め、「歩く会」にかかわった者はそれを知ってしまっているから、この映画の評価に加わるわけにはいかない。少しでも「歩行祭」に自分も参加したような気持ちを持ってもらえたら、モデルとなった高校の出身者としてはちょっと嬉しい。

主役は「歩行祭」だが、もちろんキャストの演技がつまらないわけではない。そのイベントの雰囲気を伝えるにあたり、もっとも重要な役割を占めるのが、ヒロインを演じた多部未華子を始め、出演者たちであることは言うまでもない。実際に60キロほど歩いてみてからロケに臨んだという彼女たちの表情は、まさしくリアルに「歩く会」の顔だった。

今にして思うと、「歩く会」は、実にキツい行事だった。45キロ歩き、25キロ走る(映画では合計80キロだが、実際には70キロ)という、もはや奇祭の域に達しているこのイベントのために、夏休み明けから体育の授業はすべてマラソン。受験を控えた3年生も例外ではなく、この期間は家に帰っても勉強どころではない。しかも10月のこの行事が終わってからようやく本腰を入れて受験に取り組む人も多いために、現役進学率を確実に押し下げているのだ。

自分の場合、あれが楽しい思い出か、つらい思い出かと問われば、迷うことなく「つらい思い出です」と答えるだろう。しかし、あってよかった思い出か、なくてもよかった思い出かと聞かれれば、それはあってよかった、というほうにマルをつける。

それは、この映画の印象に重なると思う。面白かった映画か、そうでもなかったか、と聞かれれば、「そうでもない」と感じる人はかなりいるだろう。しかし観てよかったか、観なくてもよかったか、と聞かれれば、それは観てよかった、が多数派になるような気がする。

それで、この映画は成功なのだ。思い出というのは、きっとそんなものだろうから。

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「夜のピクニック」公式WEBサイト
http://www.yorupic.com/

水戸第一高等学校のWEBサイト
http://www.mito1-h.ed.jp/

Wikipediaで「水戸第一高等学校」を検索する

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「夜のピクニック」地元舞台挨拶

先週、生まれて初めて映画の舞台あいさつというものを見学したのに(しかも2回)、今週も、また別の作品で舞台挨拶だ。

今度は「夜のピクニック」の地元あいさつ。上のエントリーにあるように、多少自分もかかわりのある題材なので、ひたちなかのTOHOシネマズまで遠征を決意。

15時半からの上映とのことだった。遠征と言ったって、現在住んでいる柏からは、車で2時間もあれば余裕の距離。きょうは大阪、明日は福岡、と全国四季劇場めぐりをしている自分にとっては、楽勝である。

という油断が、思いもかけないボウケンを招いた。

11時に家を出た。しかし、車のエンジンがかからない。またバッテリーが上がっている。今年はもう4回目だ。2カ月乗らなかったぐらいで上がってしまうとは、何という軟弱さだろう。ソニーの電池回収といい、日本の電池産業はいったい何をしているのだ。

しかし、これはおりこみ済み。だから早めに家を出たのだ。いつものようにJAFを呼ぶ。すると1時間かかるという。ちょっと厳しくなったが、まだ余裕はある。そのまま待機することに。

1時間10分かかっても作業車が来ない。また電話すると「あと20分」とのこと。これではいつ来るか分からないので、電車で行くことにしてJAFはキャンセル。わがまま会員だ。

だが、駅に行くと電車が動いていない。昨日の大雨の余波だ。携帯で運行状況をチェックしたとき、常磐線不通と出ていたが、早朝のアラートだったのでもう動いていると信じて疑わなかったのは失敗だった。

すでに12時半。復旧のめどは立っていない。電車は断念。そこでもう一度JAFに電話。「あと1時間かかります」。車も断念せざるを得ない。

これが仕事なら、この時点で諦める。だって不可抗力じゃん。しかし遊びである以上、手抜かりは許されない。それに今回は現地で高校時代の同級生、電機大手に勤めるK主任技師と落ち合う約束になっている。男の約束は簡単に破棄してはいけない。たかだか100キロ先のところに、2時間以内に行ければいいのだ。物理的に不可能ではない。

タクシー。これは金がかかりすぎる上、そのへんを走っている車に「ひたちなかまで」と告げたら乗車拒否されても文句は言えない。無線で呼べば手配できるだろうが、時間がかかってしまう。

さすがにあせってきた。ふと、「ブラック・ジャック」第17巻「助け合い」で、飛行機を使わずに半日で北海道まで行かなくてはならなくなった(東北新幹線もまだ走っていない時代)ブラック・ジャックを思い出した。

あのとき、ブラック・ジャックはどうしたっけ。

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そ れ だ!

もちろん大量の保証金で事実上買い上げるようなマネはしないが、柏駅前のニッポンレンタカーに飛び込むと、運良く1台すぐに乗れるという。

なんとか12時40分に出発。渋滞もなく、14時すぎには現地に着いて、「COCO’S」でお昼ご飯を食べることもできた。

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そうそう、舞台挨拶の話だった。

今回も、錦糸町TOHOシネマズ同様スポットライトはなし。しかも先週より暗くて、表情はだいぶ見えにくかったものの、売り出し中の多部未華子を間近で見られたのはよかった。デビュー当時の洞口依子を思わせる透明感のある女優だ。今後応援していこう。

それぞれのコメントは下記のとおり。

多部未華子(甲田貴子役)
「茨城のみなさんはロケのたびに本当に心温かく迎えていただけるので嬉しい。この作品では、夜のロケでみんなテンションが上がってきて、合唱したりしたのを思い出す。エキストラのみなさんが、休みの少ない厳しい日程の中で、すごいパワーを生んでくれた。これからも、茨城にはお世話になります」

石田卓也(西脇融役)
「この映画がいいと思ったら、ぜひ友達にも教えてあげてほしい。撮影ではつらいこともあったが、本当に高校に行ったような雰囲気が味わえて楽しかった。撮影に参加したエキストラのみなさんも、いくつかカップルが誕生したりしていたので、楽しんでいただけたのかもしれない」

長澤雅彦(監督)
「この映画は、茨城のみなさんに支えられて作った映画。そのうえこうして観に来ていただいて観劇している。エキストラとして参加いただいた方も、本当に元気に、いい表情をしてくれた。こんなに多くの人からパワーをもらって映画づくりができたのは初めてだ」

ちなみに、司会の人が「この中に水戸一高出身の方いらっしゃいますか?」と聞いたら自分を含め20人ほどが手を挙げた。イベント好きの校風は健在のようだ。

終了後、やはり同級生で水戸でITビジネスを手がけているU社長と合流。みんな自分と違って責任ある仕事と家庭を両立しており素晴らしい。どっちもできてない自分は、ほとんど人間失格だ。

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2006年10月 1日 (日)

松浦亜弥×石川梨華「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」(少しばれます)

非常にいい出来の映画である。

冒頭の、渋谷を舞台にした衝撃的なシーンから強制送還、脱出、拘留、スケバン刑事任命まで、息もつかせない展開で大いに引き込まれる。

「探偵物語」で有名な大ベテラン・丸山昇一の脚本には無駄がなく、その後もいいテンポで物語が進み、だれるところがない。どこまで自分の力で演出しているかは疑問ながらも、深作健太は自分なりに父親の作風を受け継ぎ、それをよりスピーディーに、そしてポップに繰り広げていこうとする姿勢が垣間見えて好感が持てる。

松浦亜弥の演技は期待どおり、100%役を飲み込み、そこに自分なりの解釈を加え、全く新しい麻宮サキ像をつくりあげた。石川梨華も、これは期待以上に悪役を見事にこなしている。もはやテレビ版第一部で「ゲームなんだよ!」の名セリフを残した河合その子を軽く越え(低すぎるハードルか?)、海槌麗巳を演じた高橋ひとみをも凌駕しているではないか。美勇伝の三好絵梨香、岡田唯もいじめられっ子を好演。竹内力はさすがの存在感で、映画全体を引き締めた。窪塚俊介も、あっちの世界に行ってしまった兄ほどではないにせよ、不可思議なオーラを放って映画全体の雰囲気づくりに貢献した。

アクションシーンもCGやワイヤーを駆使して意外なほどの迫力に仕上がっている。石川と松浦のタイマン勝負は、石川のセクシーなボンテージファッション(フィギュア化きぼう)とあいまって、目がスクリーンにクギづけだ。

スケバン刑事という作品へのリスペクトも忘れず、ヨーヨーやセーラー服といった記号はもちろん、時代錯誤の決めゼリフまでもきちんと折り込み、現代風にアレンジはされているものの、まがうことなきスケバン刑事、と映画になっている。また、原作の和田慎二がテレビ版第3部で「サキが自分のために闘っている」と激怒して、以来映像化の道が絶たれてしまったことに配慮してか、孤高ながらも友のために命を賭けて闘う麻宮サキ、という構図が明確に描かれていた。

そして言うまでもなく、斉藤由貴と長門裕之の出演は、旧作を愛してやまない自分のようなファンにとって、涙が出るほど嬉しい。しかもそれに頼り切らず、あくまで盛り上げ要素と割り切っているとことも高く評価できる。

とにかく、スケバン刑事テレビ版・劇場版のファンとしても、原作のファンとしても、単に映画ファンとしても、全く非のうちどころがない。なんくせつけようにも、最初の爆破シーンがちょっと合成しょぼかったとか、何で大谷雅恵なんだとか、些細なことしか思いつかない。お涙頂戴のぬるい恋愛映画一辺倒になっている日本映画界に活を入れるには十分な快作、いや傑作と言っていい。

だが、それでもなお、どうもこの作品には何かが欠けているような気がしてならない。それは主に旧作との比較によって感じられるものなので、この作品の評価に何ら影響するものではない。ここからはスケバン刑事ファンのつぶやきと思って(よろしければ)読んでいただきたい。

その足りないものは何か。旧作では、まだ新人の斉藤由貴や南野陽子といったアイドルが、演技もろくにできないのにアクションに挑み、その上時代錯誤の啖呵まで切らされる、というその姿に萌えていた(当時その言葉はなかったけど)という側面があり、そこをいくと松浦亜弥は既にアイドルとしては中堅以上であり、しかもどんな仕事も着実に成果を残すプロ根性の座った存在である。明らかに似つかわしくない仕事をけなげにこなしている、という感情はとうてい持てない。そういう足りなさはある。

また、上記のようにほとんどの面で及第点を取っているために、優等生的にまとまってしまい、原作者を激怒させてまで暴走して作ったテレビ版第三部のような、とんがった魅力に欠けている、ともいえる。

しかし最大の点は、この作品には「怒り」が感じられないという点ではないか。

テレビ版スケバン刑事は、田中秀夫ら、東映のテレビシリーズを長年支えた気鋭の職人たちが作り上げた作品である。しかし、彼らはみな、映画の世界にあこがれてそこに身を投じた人たちである。いつかは本編を、という気持ちは常にあっただろう。スケバン刑事には、彼らの映画へのあこがれが色濃くにじみ出ており、映画黄金期のさまざまな作品へ、多くのトリビュートがなされている。それは同時に、「なんで俺たちがアイドル主演のテレビ番組なんか作らなきゃいけないんだ」という怒りの裏返しでもある。

だが、第二部あたりからこのスケバン刑事をいう素材を生かして、単なるアイドル番組ではない、自分たちの作りたいものを作ってしまおう、という雰囲気が出てくる。原作とはどんどん離れていくが、その制作姿勢が「怒りをバネに、闘いを挑む」というサキのキャラクターに奇跡的に符号したことで、結果的にテレビ史に残る傑作を生んだのだ。それがいささか暴走したのが第三部で、これは映画ファンにはたまらない出来だったが、もはや「スケバン刑事」ではなかった。

今回の映画には、そうした怒りが感じられない。助監督経験もそこそこに、いきなり監督デビューしてしまった深作健太に、それは臨むべくもないだろう。もちろん、それを責めるつもりはない。

作品への評価が決まるのはこれからだが、世間の雰囲気としては、この往年の名作のリメイクを歓迎しているように思える。ビジネス的にみても、高校生当時にスケバン刑事を応援していた世代は、いま30代後半であり、一番カネを使いやすい世代になっており、追い風が吹いている。

そうなると続編の制作も十分ありうる話だと思うが、シリーズとして走り続けるためには、スケバン刑事を支えてきた大きな原動力である、「怒り」を取り戻せるかどうかが、カギではないか。

もっともこの歓迎ムードの中で、それは非常に厳しい注文かもしれない。ならば、また別の原動力を探すことだ。それが何かは、深作監督らに大いに悩んでもらいたい。

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「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」のホームページ
(このURL、よく取れたなあ)
http://www.sukeban.jp/

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「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」初日舞台挨拶×2

9月30日(土) 11時30分

先週、歌舞伎町に朝5時半から並んで入手した、新宿トーアの初日舞台挨拶つき上映の回に入場。通路側の良席を確保だ。

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新宿トーアはいかにも新宿、というレトロさ満タンの映画館で、薄暗い中ピンスポットだけで行われた舞台あいさつはどこかアングラ劇場のようないかがわしさが漂い、なかなか味わいがある。

登場は松浦亜弥、石川梨華、三好絵梨香、岡田唯、深作健太監督。

気合いの入ったファンが狭い劇場内をぎっしりと埋め尽くし、いきなり客席のボルテージは最高潮だ。松浦は開口一番「今日ってファンクラブのイベントでしたっけ!?」と微妙なボケで応じ、さらにヒートアップする。

それぞれ緊張気味、特に深作監督が何を言っているのかわからないほどガチガチになっていたが、松浦の落ち着き払ったソツのないコメントで無事終了。

10分ほどで舞台あいさつが終了、上映となったが、映画は観ずに退出

映画を見ていると、このあとTOHOシネマズ錦糸町で行われる次の舞台あいさつに間に合わないからだ。

同日 14時

TOHOシネマズ錦糸町に入場。これは数日前にネット発売され、運良く入手できたものだ。

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TOHOシネマズ錦糸町は、錦糸町駅から5分ほどのところに出来たばかりのショッピングモール「オリナス」の中にある。

こちらはシネコンなので劇場内が明るく、ピンスポットなしで進行。照明が当たっていなくても、アイドルはやっぱりアイドルだ。

どうも気合いの入った連中は厚木の「モーニング娘。 コンサートツアー2006 秋 ~踊れ!モーニングカレー~」に移動したようで、こちらの会場はだいぶおとなしめ。出演者もやや慣れてきたようで、多少の掛け合いなども入りなごやかに進んだ。こちらも妙な空気になるとすかさず松浦が場を盛り上げ、大人の貫禄を示す。

以下、各出演者のコメントを適当にかいつまんで紹介。

松浦「ミニスカートはいつも履いているので長いスカートのほうがよかった。アクションシーンはスタントマン相手なら思う存分動き回れたが、石川や窪塚俊介相手のときは怪我をさせてはいけないと緊張した」

石川「相手が亜弥ちゃんでよかった。仕事で一緒だし、やりやすかったと思う。最初は悪役と聞いて『なんで?』と思ったが、監督から楽しんでやれと言われ、鏡で表情の練習をして臨んだ」

三好「演技そのものが初めてで、大変だった。寒いなか石川にいじめられているので、そこを観てほしい」

岡田「撮影期間内に高校を卒業し、スタッフに祝っていただいたのが嬉しかった。自分の関西弁もみどころのひとつだ」

深作「前二作は映画人として尊敬すべき先輩の仕事。それに負けないようにいいものを作りたかった。タイトなスケジュールの中でみんなよく頑張ってくれた。ぜひパート2も作りたい。石川さんのボンテージ姿は情熱的だった」

松浦まとめコメント「それぞれ松浦亜弥、美勇伝という存在を捨てて、私は麻宮サキという役になりきって取り組んだ。完成した作品を観たがとても面白い。展開が早いので瞬きもしないぐらいの勢いで観てほしい。この映画にはテロやネット犯罪、いじめといった今日的な問題も描かれている。ぜひ楽しむだけでなく、そこから何かを得てもらえれば」

松浦のコメントの、なんとしっかりしていることか。ますます実年齢が知りたいものだ。

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2006年9月25日 (月)

ブライアン・シンガー×ケビン・スペイシー「スーパーマン リターンズ」(ちょいばれ)

長い長い紆余曲折を経て、ようやく完成したスーパーマンの新作映画。ティム・バートン監督、ニコラス・ケイジ主演という話も頓挫、「チャーリーズ・エンジェル」のマックG監督もいちど決定しながらお流れに。最終的にブライアン・シンガーが「X-MEN ファイナル・ディシジョン」を諦めて監督し、新人を起用するという形で決着した。

ブライアン・シンガーは現在のハリウッドで最も実力のある監督の一人だと思う。何しろ出世作「ユージュアル・サスペクツ」を撮ったときにはまだ20代だ。その後はどちらかというとプロデューサー的なセンスを発揮し、バランスの取れたエンターテイメント作品を次々に世に送り出している。その極めつけがX-MENシリーズだ。衣装を黒に統一するなど、大胆なアレンジを加えながらも原作へのリスペクトあふれる演出を展開、ずらり並んだオスカー級のスターとシェイクスピア演劇出身のベテラン俳優も自在に使いこなして見事に大ヒット作を作り上げた。

これは大いに期待ができそうだ。そしてもうひとつ、レックス・ルーサーをケビン・スペイシーが演じると聞いたとき、その期待はさらに高まった。もはやジーン・ハックマンと一体化していたこの名物悪役キャラを、彼以外の誰が演じられるだろうと考えていたが、これは最高にナイスなキャスティングだ。シンガーとのコンビも「ユージュアル・サスペクツ」以来となる。

今回の作品は、スーパーマンや彼を取り囲む人々の内面もより深く描いた、やや大人っぽい映画になるようだ、と宣伝で聞いていた。それは自分にとってはやや不安要因だった。スーパーマンの魅力は、何と言っても列車を素手で止めるとか、弾丸よりも早く走るとか(いや、それはエイトマンか)、牛を素手で倒すとか(いや、それは大山倍達か)、とにかく荒唐無稽なことをやってのけて、それに拍手かっさいするといういかにもアメリカ的なエンターテインメントだと思うからだ。

しかし実際に観てみるとそれは全くの杞憂だった。あいかわらずスーパーマンは大いにばかばかしい活躍をしてくれて、何も考えることなく楽しめる快作に仕上がっている。考えてみれば現在のデジタル技術を使えば、イマジネーション次第でいくらでもばかばかしいことを視角化できるわけで、スーパーマン映画を作るにはいい時代になっているといえる。スーパーマンが飛び立つ瞬間を、本当に無重力のように表現できているのにはビックリだ。そういうところをなぜ宣伝しなかったのか。恐らくストレートにスーパーマンの映画、と宣伝すると冷めた若者や泣きたい女性に受け入れられないだろう、と少しおとなしめのPRを繰り広げたのかもしれない。それでもあまり盛り上がらず、どんどん上映館が減ってしまっているのは残念だ。

ケビン・スペイシーのレックス・ルーサーは期待どおり。ジーン・ハックマンのルーサーは、いかにも食えない悪党、という雰囲気が印象的だったが、その食えなさをさらに煎じ詰めたような食えなさ加減で、最高に楽しませてくれた。シンガーとのコンビネーションによる演出もばっちりで、いったいレックス・ルーサーにカツラをかぶせるなんてことを誰が考えついたのだろう。それも話題沸騰中の「ヅラ刑事」のモト冬木のように、そのヅラを重要なアイテムにしている。このケビン版ルーサーだけでこの映画を観に行く価値がある。いきなり最初のシーンがレックス・ルーサーから始まるというのも、この監督がこの映画で何をしたかったのか、雄弁に語っている。

そう考えれば、もっとルーサーに出番を与え、もっとハジけたルーサーを見せてくれても・・・と思わないでもない。しかしそれではこれが「スーパーマン リターンズ」ではなく「レックス・ルーサー リターンズ」になってしまう。そのあたり踏み外さないのが、シンガー監督の希有なセンスである。ユニークな演出と、誰にでも受ける大衆性のバランスを取れるのが、この人の持ち味だ。個人的には、「ユージュアル・サスペクツ」のような、度肝を抜く構成で刺激を与えてほしい気もするが、スーパーマンという素材を扱う以上、それは望めないのだろう。

ところで、この作品は物語上、1978年の映画第1作「スーパーマン」の続編、という形を取っている。だからロイス・レインはスーパーマンの正体に気付いていない。歴史上なかったことにされている「電子の要塞」や「最強の敵」はまだしも、戦いあり、恋愛あり、笑いあり、感動ありの一大娯楽活劇「冒険編」を無視したのは意外だった。まあ1984年版ゴジラが1954年版ゴジラの続編という形を取っているようなものか。わかりにくいかニャ。

Smark

「スーパーマンリターンズ」の公式WEBサイト
(重いわ音出るわ、最低のつくり)

http://wwws.warnerbros.co.jp/supermanreturns/

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2006年9月23日 (土)

整理券

整理券

ゲットだぜ!詳細は来週。

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早朝の歌舞伎町

早朝の歌舞伎町

並んでます

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2006年7月16日 (日)

樋口真嗣「日本沈没」リメイク

「平成ガメラシリーズの樋口」「エヴァンゲリオンの樋口」「ローレライの樋口」と、枕詞に事欠かない当代随一の映像クリエーター、樋口真嗣が「日本沈没」のリメイクにチャレンジした。もっとも自分にとっては「さくや妖怪伝の樋口」であり、「ミニモニ・じゃ・ムービーの樋口」であるわけだが。

1973年版では、「日本沈没」という衝撃的な発想こそが映画の主役であり、そこに描かれる人間模様はあくまで脇役に過ぎなかった。だが今回は「日本沈没」をモチーフにして、そこで繰り広げられる人間ドラマを中心に描こうとしている。

その意図は、おおむね達成できていたように思う。クライマックスでは、満員の映画館の中、女性を中心に多くの人が涙をぬぐっていた。それらの人々には、「ドラマが主、『沈没』は従」という構図が十分理解されていたのだと思う。

実は個人的には、そのドラマの部分があまり面白くなかった。登場人物の関係はややステレオタイプに過ぎているし、未熟ながらも自分の芸風を貫こうとする主演の2人(草なぎ剛、柴咲コウ)はともかく、ベテラン勢の演技までもがどうも上滑りしているように感じられたからだ。

そして、自然災害を描いたシーンが想像以上にいい出来だった。CGというよりも、実写映像をデジタル処理して災害映像にするという手法を多用しているが、これが見事にリアリティーを発揮していた。もちろん、実写映像を使ったからリアリティーが出る、という単純なものではない。今回は、まるでかくし味のように、そこに、古き良き時代の「特撮」技術を盛り込むことで映像に深みを持たせ、リアリティーをぐっと引き立てることに成功していた。

そのせいもあって、どうも自分としては「『沈没』が主、ドラマは従」という見方しかできなかった。むしろ旧作のほうが、怪獣映画で見慣れた災害シーンより、藤岡弘、いしだあゆみ、丹波哲郎、二谷英明といった濃いメンバーの暑苦しい演技のほうが印象的だったため、ドラマを主に見ていたのである。

もっと思い切って、人間ドラマの中に「沈没」を飲み込んでしまうような構造にしてほしかった。ジェームス・キャメロンが、スペクタクルシーン満載の「タイタニック」「トゥルーライズ」をそれぞれメロドラマ、ホームドラマとして作ってしまったように。

ただ何度も言うように、それは個人的な感想で、映画の出来自体は決して悪いものではない。カメオ出演陣も丹波哲郎から池田成志に至るまで、実に豪華かつユニーク、そしてそれぞれツボを押さえた起用をしているので、それを探すだけでも一見の価値ありだ。

ところで、筒井康隆のパロディー短編小説を原作にした映画「日本以外全部沈没」の公開ももう間近だ。そうとういい加減な作品になるようだが、こちらも楽しみである。

Chinbotsu

「日本沈没」公式WEBサイト

http://www.nc06.jp/

「日本以外全部沈没」公式WEBサイト

http://www.all-chinbotsu.com/

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2006年6月18日 (日)

映画「デスノート」前編(40秒以内にバレる)

デスノートファンの皆さん。

この映画は観てはいけない。少なくとも、観ないほうがいい。

なぜならば。

とてつもなく続きが観たくなるからだ。後編の公開は11月。そんなに待てるかよ、リューくん。

恐らく後編の公開時には前編もリバイバル上映されるだろうし、ひょっとしたらDVDも出るかもしれない。そのとき、まとめて観た方が精神的にはずっといい。

我慢ができなければ、こんなくだらないブログを読んでいないですぐ映画館に走れ!

それでもこのエントリーが読みたい人は、更に6分40秒が与えられる。

続きを読む "映画「デスノート」前編(40秒以内にバレる)"

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2006年3月19日 (日)

真救世主伝説「北斗の拳」ラオウ伝・純愛の章

「北斗の拳」を、劇場公開やOVAなど長編5作品として映像化しようという試みの第1弾が公開された。

北斗の拳は1986年にも映画化されているが、やはり多数のキャラクターによる群像劇であるこの作品を2時間ほどにまとめるのは無理があったようで、やや中途半端な作品になってしまった。だがうじきつよし率いる「子供ばんど」の主題歌は強く印象に残った。たしか、高校2年から3年に上がる春休みで、観たあとクラスの友人の家に泊まりにいったのを覚えている。ほか、爆笑もののハリウッド実写版もある。

5作品は、ストーリー進行順に分けるのではなく、各キャラクターごとに再編していくようだ。群像劇、ということを考えるとこの判断は正しい。その上で、いくつかオリジナルキャラクターも登場させることになっている。

さてその第1部、なかなか面白かった。拳王(ラオウ)軍 vs 聖帝(サウザー)軍、という構図をベースに敷いたことで世界観が明確になり、それぞれのキャラクターが生きた。デジタル技術を多様しているものの、それらしいCGは出さず、テレビアニメに親しんだ世代にも抵抗のない仕上がりだ。また、マンガで描かれた印象的なシーンを意識した作画が多く、マンガを読んでいたころの興奮を思い出しながら観ることができた。

キャラクターを絞り込んだこともあり、テンポよく、しかも無理なく進むので飽きさせない。実はかなり疲労した状態で映画館に入ったが、全く眠くならなかった。

驚いたのは、主役・ケンシロウの声を演じた阿部寛が、驚くほどはまっていたことだ。演技過剰にならず、抑えた声の演技もよかったが、声自体がケンシロウのイメージにぴったりである。神谷明の声に慣れ親しんでいるので、誰がやっても慣れるまでは違和感があるだろうな、と思っていたが、最初のシーンから全く無理なく受け入れることができた。「はいからさんが通る」の少尉や、「姑獲鳥の夏」の榎木津礼二郎も見事だったが、強烈なキャラクターをそのイメージ通りに演じられるというのは阿部寛の希有な才能といっていい。

「北斗の拳」ファンにはこたえられない、満足のいく出来だ。今のところ「北斗の拳」という傑作を、いかにして映像という形に置き換えるか、という試みだが、巧みな構成や魅力的な新キャラクターの投入で、新しい価値を生み出す可能性も十分にある。このあとの作品にも大いに期待したい。

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映画「北斗の拳」公式サイト
http://www.hokuto-no-ken.jp/

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2006年3月12日 (日)

映画ドラえもん「のび太の恐竜2006」(ややばれ)

制作体制を整えるために、1年休んで復活した劇場版「ドラえもん」。映画化第1作「のび太の恐竜」(1980年公開)のリメイクだ。

「のび太の恐竜」といえば、「ルパン三世・カリオストロの城」「機動警察パトレイバー 劇場版」にも負けない、アニメーション映画の金字塔というのが自分の評価だ。アニメーションに限らず、今までに観た映画で最も感動した作品は何か、と聞かれたら迷わず「のび太の恐竜」と答えることにしている。それほど好きな作品だけに、リメイクと聞くとやはり冷静ではいられない。いずれにしても満足のいくものにはならないだろう、と、文句のひとつも言ってやるつもりで足を運んだ。

しかし始まってすぐに、これが80年版「のび太の恐竜」へのオマージュに満ちあふれた作品であることが分かった。冒頭のカットは、スクリーンいっぱいに広がる巨大な月。旧作の中で何回となく登場した、印象的なモチーフだ。これは記念すべき第1作にして最高傑作である「のび太の恐竜」への敬意を示したものだろう。そして劇中でも、旧作で疑問とされたことに答えるなど、この映画のスタッフがいかに「のび太の恐竜」を深く愛しているかを感じさせる場面が随所に見られた。

ストーリーも展開も大きな変更はない。ただもちろん25年の時を隔てているわけだからそれなりのパワーアップはなされている。恐竜や太古の自然の描写は、それこそ比べものにならないほど細かく、またデジタル技術を駆使して描かれた映像はスピード感があり、観る者を引きつける。

強化しているのは映像面だけではない。いくつか新しいエピソードも追加されたが、その多くはのび太以外の登場人物に関するものだった。これによって、旧作がのび太と恐竜・ピー助の愛情を中心に展開した物語、という印象だったのに比べ、新作はのび太・ジャイアン・スネ夫・しずか・ドラえもんとピー助の群像劇、というスタイルになった。

エピソードが増えている割に詰め込みすぎた感じもなく、テンポよく進んで飽きさせない。子供が喜ぶ下品なギャグもふんだんに取り入れ、お父さんが喜ぶしずかちゃんの入浴シーンも、一瞬ではあるがこれまでにない強烈なエロチシズムを感じさせる上質の仕上がりになっていた。

そしてクライマックスは、旧作に劣らない深い感動を与える。劇場内でずっと騒いでいた子供たちもここでは静まりかえり、また客席では多くのお父さん、お母さんが涙をぬぐっていた。

総じて実によくできた作品だ。日本アニメーション界に、またすばらしいコンテンツが1つ加えられたことは間違いない。個人的にも大いに満足している。

しかし、映画としてこれを傑作と呼んでいいか、というと、そこには疑問が残る。というのも、この映画から受ける感動は、26年前に味わったものと、ほぼ同質のものだからだ。新しい感動、新しい価値を創造するのでなければ、リメイクの意味はないだろう。

もっともこの映画の制作意図は、冒頭で述べたように「体制の立て直し」だ。毎年制作され、東宝のドル箱でありながら、近年、特に藤子・F・不二夫氏がこの世を去ってからは、やはりその質の低下が顕著であり、惰性で作っている感が否めなかった。同じように毎年制作されている「名探偵コナン」「ポケットモンスター」「クレヨンしんちゃん」が作られるたびに高い評価を受け、成人ファンの心もつかんでいることを考えれば、その差は歴然だ。今回の「のび太の恐竜2006」は、「ドラえもん」が決してコナンやしんちゃんに負けないエンターテインメントに成り得ることを示したものといえる。それら後発の人気シリーズにようやく「追いついた」のであり、本当の勝負はこれからだ。「新生ドラえもん」が全く新しい面白さを創り出すことができるか、一新された声優陣の成長とともに“あたたかい目”で見守っていきたいと思う。

きょうのおみやげ:ピー助をつれて歩く「おさんぽドラ」。

sanpo

のび太の恐竜2006 公式サイト(音が出ます)
http://dora2006.com/

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2006年2月25日 (土)

磯山さやか「まいっちんぐマチコ! ビギンズ」

お祭りキャストに沸く「キャッツ」で華麗に復帰、といきたかったところだが、世の中そんなに甘くもなく、前日予約に連戦連敗。地味にDVDの話題でも。

昨年単館上映されていたが、なかなかタイミングが合わず観られなかった「まいっちんぐマチコ! ビギンズ」をDVDで鑑賞した。この作品は、マチコ先生の誕生秘話を、壮大な歴史観で描いた意欲作だ。

マンガで描かれた世界よりも前の話なので、舞台は「あらま学園」ではなく、「こりゃま学園」という高校になっている。もちろんケン太やカメ夫などのキャラクターも登場しない。

主演は磯山さやか。マチコ先生はこれまで何度となく実写化され、名波はるかや仲谷かおりがマチコ先生を演じるDVDシリーズは今も続いているが、あまり評判はよろしくない。しかし今回の磯山マチコ先生は、決して原作に忠実ではないものの、マチコ先生らしい、思わずちょっかいを出したくなるオーラを身にまとっており、好感度は非常に高い。

映画全体としてもなかなかよくまとまっている。とにかく、主演の磯山がまったく演技できていないのがいい。ただひたすらかわいい表情を見せているだけで、周りの芸達者な出演者によって勝手に話が進んでいく。中でも教頭を演じた八木小織が出色の出来で、日中国交 正常化15周年記念映画「パンダ物語」の長期ロケのためにアイドル人生を棒に振った「八木さおり」が、これほど激烈な演技のできる女優に成長していたことに感動を覚えた。

監督は「援助交際撲滅運動 地獄変」や「オッパイ星人」などで活躍中の鈴木浩介。そのどちらも未見だが、どうも見たことのある演出の雰囲気だな、と思ったらやはり「ケータイ刑事」をいくつか撮っていた。ケータイ刑事をがまんして観られる人は抵抗なく楽しむことができるだろう。

ところで磯山さやかは茨城県鉾田市の出身である。何を隠そう、自分の本籍地だ。鉾田市、と言っているがつい最近までは鹿島郡「鉾田町」だった。昨年3月に旭村・大洋村と合併して鉾田市になったのだ。1月の「出没!アド街ック天国・常磐ハワイ編」のゲストとして登場した磯山は、鉾田市の出身であることに誇らしげに語っていた。これまで鉾田の有名人、といえば1976年春のセンバツでノーヒットノーランを達成した鉾田一高の戸田秀明だったが、それに次ぐ存在がやっと登場したことをすべての鉾田市民とともに喜びたい。

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「マチコ先生のまいっちんぐ出席簿」

http://www003.upp.so-net.ne.jp/maicching/index2.html

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2005年11月28日 (月)

「スター・ウォーズ エピソードⅢ シスの復讐」DVD発売

そういえば、「スター・ウォーズ エピソードⅢ シスの復讐」をロードショーで観た時は先々行オールナイトというタイミングでもあったので、あまり詳しく感想をメモしておかなかった。DVD発売を機に、忘れないうちに書き留めておこう。

この作品で何が嬉しかったかといえば、冒頭の「背景説明」の最初のセンテンスが「War!」のひとことだったこと。公開時の字幕では「戦争激化!」とかになっていたが、いまいちムードが伝わらない。「戦争だア!(青島幸男調)」とか「戦争キター」とか「戦争、フォー!」とか訳すほうが正しい。要するに、まこと不謹慎ながら戦争が始まったことにわくわくしている気持ちが現れていなければいけない。ちなみにDVD版では日本語字幕が「戦争だ!」、日本語音声時の表示が「戦争勃発!」。

そもそも戦争映画というのは、戦争でカタルシスを感じさせるエンターテイメントだから、不謹慎なものだ。社会的、倫理的なテーマの色濃いリアルな戦争を描いた映画は、通常「戦争映画」とは言わない。逆に考えれば、その戦争にリアリティがないほど、より純粋な戦争映画ができあがる、とも言える。

そういう意味で、スター・ウォーズは、間違いなく戦争映画だ。何しろ「昔むかし、銀河のかなたで」行われた戦争である。リアリティーなんてひとかけらもない。戦争絵巻の中で繰り広げられる、血わき肉おどる冒険譚。それこそこのシリーズの本質ではないのか。「暗黒面」に代表される神話的な要素は、後付けされたものだと思う。

その神話的な要素も嫌いではないから、エピソードⅠ、Ⅱも十分に楽しかったことは確かだが、やはり物足りないのはスター・ウォーズらしい宇宙空間でのドッグ・ファイトが少なかったからだ。小学生のとき、映画館でこのシリーズに出会ってもっとも印象に残ったのはクライマックスのデス・スター攻略戦だったし、大学時代に東京ディズニーランドの「スター・ツアーズ」や「キャプテンEO」を体験して、やはりジョージ・ルーカスがやりたかったのはそこだったんだ、と再認識した。

今回のエピソードⅢでは、のっけから大空中戦である。こちらの欲求不満を見透かしたかのようなこの展開。ああルーカスは分かってくれていたんだ、と勝手に感謝した。

メインストーリーは、アナキン・スカイウォーカーの転落の物語であり、ダース・ベイダー誕生秘話だ。その評価については「転落が急すぎる」とか、賛否が分かれているようだが、その部分については、可もなく不可もなく、という感想である。一般的に予想されていたように、アミダラを失うことで暗黒面に堕ちる、というのではなく、それを失うのではないか、という恐れが暗黒面に導いた、というくだりは、いかにも神学的なアプローチだと感心したし、驚きもした。しかし、エピソードⅡの、実はクローン戦争をおっ始めたのがヨーダだった、というほどのびっくり仰天ではなかった。

最後、エピソードⅣにどうつなげていくのか、という部分についても、おおよその予想を覆すものではなかった。しかし、ここはある意味でファン・サービスに満ちあふれたものになっており、ここでもルーカスに感謝だ。ベイル・オーガナがC-3POの記憶消去を命じる宇宙船の廊下はエピソード4の最初のダース・ベイダー急襲のシーンに登場するそれだし、ラーズ夫妻がルークを抱いて眺めるタトゥイーンの空には、かつて、いや後にルークが目にするのと同じように、2つの太陽が輝いている。

そこで悪のりして、過剰なファン・サービスに走らなかったのも、ルーカスらしいといえばルーカスらしい。自分だったら、間違いなくこれでもかとエピソード4につながるシーンづくりに走ったところだろう。ラストシーンはこうだ。レイアの船を襲撃するダース・ベイダー。横付けして、壁を破壊し、「行くぞ」とストームトルーパーを率いて颯爽と乗り込んでいくさまを、帝国軍側から描くのだ。

などと勝手な想像ができるのも、このシリーズの魅力。どこかの国ではアンケートの「宗教」という覧に「ジェダイ」と書く人の割合が一定のパーセントを取ったそうだが、そうありがたがる存在ではなく、これからも身近な馬鹿映画であってほしいと思う。これからも?そう、エピソードⅦ~Ⅸだ。ルーカスは「作らない」と言っているが、これだけのドル箱を商売にさといハリウッドが見逃すはずもない。Ⅰ~Ⅲがやや暗いタッチだっただけに、新作は大いに明るい、ど派手なドンパチ映画になることを期待したい。

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2005年11月13日 (日)

山崎貴「ALWAYS 三丁目の夕日」(ばれます)

堀北真希見たさに映画館に足を運ぶ。「ジュブナイル」「リターナー」などを監督し、東宝・円谷プロ系とも、樋口真嗣らのグループとも違う、独自の特撮映画監督として名を馳せている山崎貴が、VFXによる昭和30年代の再現に挑んだのが「ALWAYS 三丁目の夕日」だ。

「少林サッカー」を観たとき、ハリウッド映画ではもっぱらスペクタクルの演出に使われるCGが、香港映画では馬鹿馬鹿しさを増幅するための演出に使われていたのに衝撃を受けた。同じ映像技術でも、使い方は無限にあるものだ。では日本映画なら、これを何に使えるだろう?とも考えた。

その疑問に対するひとつの答えが、この映画だ。そう遠くない過去の、限られた時間の中にしか存在しなかった町並みをCGで再現する、というのは、都市の様変わりが急速に起こる日本では不可欠の手法になるかもしれない。

今回、その技術は見事に目的を達成していた。路面電車が行き交う表通りのシーンなどは、どう見ても巨大なオープンセットだが、実際にはCGで合成されたものだという。

CGだけでなく、ミニチュアやモーションコントロールカメラを使った合成など、多くの技術を巧みに組み合わせて次々に展開する映像には力がある。2時間13分という長編だが、全く飽きさせないのはこの映像の力によるところが大きい。CGや合成は人工的な感じがして嫌い、という人も多いだろうが、この監督には素材をそのまま出すのではなく、あえて一手間加えることでうまさを創造すようとする、江戸前寿司職人の心意気を感じる。ぜひ食わず嫌いにならずに味わってみてほしい。

脚本や演出はやや平凡という気もするが、監督の「キャスティングができた時点で、今回の演出の仕事はある程度終わり」という言葉どおり、堤真一や薬師丸ひろ子、三浦友和といった主役をはじめ、芸達者な役者をきら星のごとく顔をそろえ、見事な演技を披露しているため、あのぐらいでちょうど良かったのかもしれない。

西岸良平の原作とはだいぶキャラクターなどの設定を変えているが、あのマンガが持つ世界観は、うまく伝えていたように思う。それは、単に町並みのことだけではない。マンガ「三町目の夕日」は、懐かしさの中に、どこか悲しさ、さびしさを漂わせているのがポイントだ。

この映画のラストシーンも、実に美しく、そして悲しい。竜之介(吉岡秀隆)は、またヒロミ(小雪)の作ったカレーを食べられるさ、と淳之介に明るく言うが、その内心ではもうヒロミとは会えないのだ、と知っている。完成した東京タワーごしに夕日を眺めて、まだ小学生の一平は「50年先だって夕日はずっときれいだよ」と言うが、その父親(堤真一)は、これから東京は空を失っていくのだと予期している。

監督は「まず、団塊の世代の人に懐かしい、と思ってもらうことをクリアしなければ、この映画は成立しない」と語っている。その言葉は読み方を変えれば「懐かしさだけの映画ではない」という意味にもとれる。その懐かしさの先に何を感じさせるか、がこの映画の真価であることを忘れてはいけないだろう。そうした視点から言っても、なかなかの秀作である。

sunset

ALWAYS 三丁目の夕日のWEBサイト

http://www.always3.jp/

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2005年11月 2日 (水)

映画「春の雪」

何というか、中途半端な作品である。

一般論として、原作と、それを映像化、舞台化したものとは別ものとして考えるべきだと思う。どんなに原作とかけ離れていようが、面白ければそれでいい、と自分は常々考えている。まして三島由紀夫である。それをどういう角度でとらえようと、どういう部分だけ切り出そうと、それが一流のものであるのが三島作品のすさまじいところだ。例えば「憂国」は、純粋に官能小説として読んだとしても、それは超一流の味わいなのである。

おそらくフジテレビやホリプロといった製作者は、韓流ドラマや「世界の中心で、愛を叫ぶ」といった、いわゆる「純愛」ものが受けているから、その流れでいっちょうブンガクでもやってやるか、というぐらいの感覚しかなかったのだと想像される。パンフレットの中で行定勲監督が語っているが、制作側からの注文は「清顕と聡子の恋愛映画を作ってくれ」という間抜けなものだったそうだ。

ならばいっそのこと、その言葉を逆手にとって、徹底的に激甘のメロドラマとして描いたとしても、それなりに面白くなったはずなのだ。しかし、さすがに現場のスタッフは、それではあんまりだと思ったのだろう。端々に「豊穣の海」のテーマへの考察や解釈をセリフや演出に織り交ぜてきた。それが結果的に実に中途半端な印象をこの映画に与えてしまった。

冒頭、綾倉伯爵と蓼科がよからぬ行為にふける向こうで、子供たちがかるた取りに興じている。しかしその子供たちの姿は、情欲に溺れる大人よりもはるかにエロチックである。このシーンには目を奪われた。この映画は、正面から三島作品に、「豊穣の海」に取り組もうとしている。思わず力が入った。ところがその後、青年に成長した清顕と聡子が出てくると、実に普通の恋愛ドラマになってしまう。最初からそうなら、そういうものとして観られたのだが、どうもちぐはぐで、座り心地が悪い。

そして最後まで、その居心地の悪さは直ることがなかった。何が悪いというわけではない。演出やカメラワークは素晴らしかったし、妻夫木聡や竹内結子の演技も良かった。ただただ、中途半端だった。実に残念である。

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これを見て、久しぶりに新潮社が1988年に発売したカセットブック「学生との対話」を聞きたくなった。これは自分が生まれた年である昭和43年に、三島由紀夫が早稲田で講演したときの録音である。よく通る声で明快に語り、時に爆笑を誘い、学生の要領を得ない質問にも日本刀のような鋭い切れ味で返してくる。実に貴重な音源だ。しかし、現在我が家にはカセットテープを再生するハードウエアがない。こんど本家に寄ったときにでもデジタル化してこよう。

映画「春の雪」公式WEBサイト

http://harunoyuki.jp/

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2005年9月19日 (月)

香港映画「頭文字D THE MOVIE」

これはすごい。

頭文字Dといえば、95年からヤングマガジンに連載されている人気漫画だ。アニメーションにもなっている。自分はマンガもアニメも断片的に見聞きしているだけで、特別ファンというわけでもない。カーマニアでもない。本作のキャストやスタッフも、鈴木杏以外知らない。しかし、何となくこれは面白そうな予感がしたので足を運んだ。直感というのは信じるものだ。

何がすごいって、まず車が本当にダウンヒルでドリフトしている。スピード感だけでなく、その重量感とでも言おうか、質量のある自動車がギュルギュル滑っている、という感覚がスクリーンからひりひりと伝わってくる。

しかしそれを上回ってすさまじいのは、これを創り上げたスタッフ、キャストの映画にかける気概だろう。

ご存じの通り、これは香港映画だ。香港の監督が、日本の漫画を原作に、台湾の歌手を主役に起用し、群馬県でロケして作った香港映画である。その監督とはアンドリュー・ラウ&アラン・マックの「インファナル・アフェア」コンビである。

観に行く前、この作品に期待しつつも、やや複雑な気持ちもあった。なぜ日本の漫画なのに、香港で映画化されなくてはならないのか。日本映画界は、これだけの人気コンテンツを映像化する力が、もうないのか。そう思っていたのだ。

しかし観ているうちに、複雑な気持ちなんていうあいまいなものは消し飛んでしまった。香港映画界の実力は、もう明らかに、日本映画の手の届かないレベルに行ってしまった。比較するのが僭越なぐらいだ。こうなると、もう日本映画界がなんでダメなんだ、という気持ちも起きない。むしろ、香港映画に少しでも近づけるようにがんばってくれ、と暖かい眼差しで応援したくなった。

彼らは、この映画を撮影するためにわざわざ原作に描かれている舞台、群馬の榛名山までロケをしにやってきた。新潟の閉鎖道路での撮影も含め、車のシーンだけで50日もロケをしたのだという。馬鹿か、こいつらは。しかも、かなりの部分で、さして顔も写らないのに俳優自身がその車を運転している。ますます馬鹿だ。スタッフやキャストがそんな馬鹿になれる制作環境は、今の日本映画界にはどこを探したってないだろう。

さらに恐れ入るのは、「インファナル・アフェア」で名声を手に入れ、もはや香港だけでなく世界的に注目されるフィルムメーカーであるアンドリュー・ラウ&アラン・マックらが、「頭文字D」という原作に対し深い敬意を持って臨んでいることである。漫画を全部読んだわけではないので、それがどこまで忠実に再現されているのかは分からないが、少なくともその世界観、描かれている空気感はまさしく原作のそれと同じだ。しかも、原作の「群馬最速を目指す」というローカルさ、北関東の中途半間に素朴な雰囲気まできっちり描き出されているのだ。彼らには頭文字Dだけでなく、日本の漫画文化に対する畏敬の念もあるらしい。それが表現されたのが、主人公・藤原拓海があるシーンで来ているTシャツ。サッカーユニフォームのレプリカらしいそのシャツの左胸には「南葛」の文字が・・・。そう、「キャプテン翼」のチーム名である。彼らは、日本を舞台にした映画を撮るにあたり、この原作に、そしてそれを生んだ日本の文化に、極めて謙虚な姿勢で取り組んでいる。

まずは、日本映画はこの謙虚さから学ぶべきだろう。そして、その謙虚さをもって今回のような海外とのコラボレーションを積極的に行うのだ。自分たちの力だけで再生し、世界の映画界に追いつくことは、もう無理だ。それを痛感した一作だった。

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頭文字D THE MOVIEのWEBサイト

http://www.initial-d.jp/index2.html

(音が出ます。職場では注意)

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2005年9月11日 (日)

トレイ・パーカー&マット・ストーン「チーム☆アメリカ ワールドポリス」

大人のアニメーションとして人気の「サウスパーク」シリーズは、日本でもWOWOWで放送され人気を呼んでいる。制作をリードしているのはトレイ・パーカーとマット・ストーンというクリエーターだ。この2人の手によって作られた人形劇映画が「チーム☆アメリカ ワールドポリス」である。7月末からシネ・アミューズで公開されていたが、そろそろレイトショーのみの上映になるので慌てて観に行ってきた。

シネ・アミューズに来たのは96年の「アトランタ・ブギ」以来。山本政志監督のこの作品は、古田新太やベン・ジョンソンが出演し、大企業の資本力をバックにつけた一丁目チームと、不法滞在の外国人労働者を中心にした三丁目チームが、町内運動会で死闘を繰り広げるというとんでもない馬鹿映画だ。その大馬鹿ぶりにいたく感動した記憶がある。そして今回も、それと同じ、あるいはそれ以上ともいえる感動を手にすることができた。

チーム☆アメリカは、「サンダーバード」でおなじみの特撮人形劇である。暗躍するテロリスト退治のために、アメリカに本部を置く国際警察(自称)が世界各地に出動し大活躍をする、という設定は、もちろんポスト冷戦時代のアメリカをおちょくったものだ。そして、この映画自体が80年代以降大量に生産されている、いわゆる「ハリウッド超大作」、つまり冗談のような資本を投入し、内容よりも見た目の派手さで勝負する映画のパロディーになっている。どちらかというと力点が置かれているのは後者のほうで、ジェリー・ブラッカイマーやローランド・エメリッヒなどのスタッフ、政治に口を出す俳優達、そして彼らが生み出したクソ映画が次々とおちょくられることになる。

そのおちょくり方は徹底的で、まるで容赦がない。だからこうした大作映画を真面目に愛している人は不快に感じるかもしれない。だが、多くの「ハリウッド超大作」ファンは、その馬鹿馬鹿しさを楽しみにしている。もちろん自分もその1人だ。そういう人にとって、この映画は最高に楽しい作品と言える。逆に、最初から超大作に一切目を向けず、通好みの単館上映作品ばかり観ている人には、おちょくられている内容が理解できないだろうから、あまりお勧めできない。

米国で「パロディー映画」がジャンルとして確立しているということは、「おちょくる文化」があるということだ。そこで鍛え上げられた技術が、この作品や、「華氏911」といった傑作を生んでいる。日本はどうだろう。「国民新党」の悲惨な4コママンガを引き合いに出すまでもなく、日本ではあまりその文化が育っていない。もっとも、2ちゃんねるを見ていると日々ブラックな笑いの攻撃が展開されており、日本人にその技術の素養がないわけではなさそうだ。かつては「滑稽新聞」の宮武外骨(1867~1955)のような優れたパロディー作家もいた。ということは、それらがあくまでアンダーグラウンドなものと理解されているために、表に出てきていないだけなのかもしれない。

ところで、この映画はハリウッドだけでなく、俳優つながりでブロードウエーもヤリ玉にあげている。主人公ゲイリーが出演していたエイズ・ミュージカル「LEASE(リース)」は言うまでもなく「RENT(レント)」である。また、とんでもないところで出てくる「キャッツ」の話題。「マキャビティ」とか「ランペルティーザ」といった猫の名前を出すあたり、相当マニアックである。マニアックといえば、「ミストフェリーズ」だけは、「ミスター・ミストフェリーズ」と言っていたように聞こえた。

映画についての攻撃も、いずれも観ていなければ分からないポイントを突いている。この作品のクリエーターが、いかにおちょくる相手をよく研究しているか、ということがよく分かる。それは、もはやひとつの愛の形と言えるかもしれない。

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音楽も出色の出来。サントラCDを迷わず購入した。

「チーム☆アメリカ ワールドポリス」公式サイト

http://www.teamamerica.jp/

(追記)

映画を見ながら、ところどころでハル・ニーダム監督による世紀の珍作「メガフォース」を何となく思い出していた。あとで調べたら、マット・ストーンはこの作品を「生涯のベストワン」というほど評価しているのだそうだ。改めて自分の目の確かさに感動した。

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ダグラス・アダムス「銀河ヒッチハイク・ガイド」

1978年にラジオ・ドラマとして誕生し、その後小説として出版されベスト・セラーとなったダグラス・アダムスのSF作品「銀河ヒッチハイク・ガイド」の映画化。アダムス自身が脚本を執筆したが氏は2001年に急逝。その遺稿をもとに制作された。

突然宇宙に放り出された主人公が、キテレツな宇宙人達にほんろうされながらもたくましく冒険を続ける様を描き、そこに社会や人間の本質に迫る考察を散りばめていく。

要するに、「21エモン」(藤子・F・不二雄、1968-69)だ。

どうも21エモンという同ジャンルの傑作マンガを読んでいるために、今ひとつこの映画はピンとこなかった。ギャグも、そこに隠されたメッセージも、どうも鋭さが足りないように思えてしまったのである。原作は読んでいないが、ひょっとしたら原作はもっと英国人らしい皮肉にあふれたものになっているのかもしれない。それが、ハリウッドによって(しかも配給はブエナ・ビスタ)、皮肉のエッジが丸くなってしまったのだろうか?

あるいは、セリフを英語で理解できると少し印象が変わったかもしれない。今回、六本木ヒルズのヴァージンTOHOシネマで観たのだが、場所がら外国人客も多く、彼らは自分達が笑えないシーンでもゲラゲラ笑っていた。

映画全体のテイストは嫌いではないし、テンポのいい展開、サム・ロックウェルの強烈な演技、美しい映像など、作品の出来としては悪くないと思うので、興味のある人は観てソンはない。ただ、「21エモン」が今読み返しても新しさを感じるのに比べ、この映画にはどうも古さを感じてしまったのがいかにも残念である。

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「銀河ヒッチハイク・ガイド」公式サイト

http://www.movies.co.jp/h2g2/

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2005年7月18日 (月)

実相寺昭雄「姑獲鳥の夏」

あえて言おう。これは、京極夏彦作品の「初めての映像化」である。

もちろん、それは事実ではない。例えば「巷説百物語」は、WOWOWで2000年にドラマ化され、さらに2003年にはアニメーションにもなっている。

しかし、そのいずれも、「巷説百物語」の真の魅力を伝えるものではない。「巷説」は、その真相をあばくことが難しい事件や、真相をあばくことでより人々を不幸にしてしまう事件を、人の心に住む「妖怪」の力を借りたり、あるいは「妖怪」のせいにして解決するという作品だ。見せ場は犯人に自白を促すための「妖怪」を使った大仕掛けで、これに近いドラマといえば「ザ・ハングマン」である。

だが、WOWOWのドラマは、テレビ朝日で金曜9時から放送していた「ザ・ハングマン」ではなく、テレビ朝日で金曜10時から放送していた「必殺仕事人」のほうだった。出演者、セット、演出、すべて「必殺」へのオマージュとして捧げられ、殺しのテクニック(別の意味での「仕掛け」)を見せることに力を入れていた。いっぽうアニメーションのほうは、人の心に住んでいるはずの妖怪を、そのまま現実に登場させるというホラー・ファンタジーになっていた。もっとも、この2作とも決して失敗作ではなく、もともとそういう意図で制作されたようだ。その証拠に、どちらにも京極夏彦氏自身が嬉々として出演している。

映画「嗤う伊右衛門」も含め、これらは作品としては魅力的でも、京極作品に共通して流れるテーマである「世に不思議なし、世すべて不思議なり」というテーマを正面からとらえていないのである(恐らく意図的に)。

そこを行くと、今回の「姑獲鳥の夏」は、まさしくこの視点で描かれた映画だ。京極作品と四つに組んだ手応えの感じられる、初めての映像作品。だから自分は「初めての映像化」と言った。

作品のイメージをリアルに再現した実相寺

監督は実相寺昭雄。これを聞いたとき、この映画化が、京極作品に真正面から取り組むものになることを確信した。ウルトラセブン「第四惑星の悪夢」など、アクの強い演出のイメージが強いために、斜に構えた演出家と認識している人も多いかもそれないが、それはもう40年近く前の話だ。88年の「帝都物語」を観たとき、自分はあまりにも小説のイメージがリアルに再現されていたことに驚愕した。破壊に執着する加藤保憲の表情、加藤に対峙する土御門の形相、白馬に乗り決戦の地へ向かう辰宮恵子、都市計画を説明する渋沢栄一、そこで突拍子のない提案をする寺田寅彦・・・。すべてが、小説を読みながら思い描いていた通り、あるいはそう思わせる映像だった。また、宝塚歌劇「エリザベート」のビデオ版は、実相寺がその監修を手がけている。これは舞台の魅力を余すところなく伝え、むしろさらにパワーアップさせた舞台収録映像の傑作だ。これらの記憶から、実相寺は「やってくれるだろう」と確信していた。

そして、この予想はほぼ当たっていた。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君。」

「憑きもの落とし」を生業とする男がこのセリフを吐くという逆説。この映画が、執拗にこのセリフにこだわっているのは、「世に不思議なし、世すべて不思議なり」に正面から取り組むという姿勢を示している。まずこの姿勢に大いに満足した。

そして小説のイメージそのままに繰り広げられる映像。京極堂も、薔薇十字探偵社も、何もかもがそのままだ。このシリーズを読んだ者にはたまらないシーンが続く。

京極堂シリーズは、最後の謎ときに至るまでに重厚な語り口の膨大な文章を綴り、それを読ませることでクライマックスの衝撃度を高密度にするという構造に特色がある。映画では、その重厚な語り口を実相寺の演出が担当していた。セリフを多くしたとしても、映画の時間は2時間そこそこ。自ずと限界がある。セリフよりも映像に説得力を持たせよう、という判断は正しい。セリフではなく映像が饒舌に語ることで、最後の謎解きがセリフでは理解できずとも、何となく納得できるようになるという効果もある。

そして、おどろおどろしい話でありながら、観ていてつらくない。この味わいも、京極作品そのままだ。

テーマ、イメージ、構成、テイスト、すべてが京極作品に敬意を表し、それを理解し、映画というメディアの上で再構築している。このプロジェクトは成功と言っていいたろう。

キャスティングは賛否両論か

自分のような「京極作品は好きだが、全部読んでいるわけではない」という中途半端な立ち位置の人にはぴったりかもしれないが、全く京極作品あるいは京極堂シリーズを読んだことのない人、あるいはコアな京極堂ファンの人だとどうなるだろう。

全く知らない人でも、楽しい作品になっているとは思う。映像は美しく、テンポもいい。ただ、「世に不思議なし、世すべて不思議なり」を早い段階で理解できないと、「不思議なし」か「不思議なり」の結末を期待して、拍子抜けしてしまうかもしれない。

一方コアなファンの場合はどうか。恐らく、ぽぽんさんの意見が代表している。そこでは、配役をどう受け止めるかが大きな問題のようだ。

阿部寛は素晴らしい。というより、映画化の話を聞く前、京極堂シリーズを読んでいるときから、「榎木津礼二郎は阿部寛だよなあ」と思っていたので、キャスティングが発表されたときは当然すぎて拍子抜けしたものだ。身長の記述さえなければ、及川光博でもいいと思ったのだが。ちなみに、阿部寛の才能を日本で一番早く見抜いたのは、俺である。「はいからさんが通る」という映画の題名はもはや阿部寛のプロフィールからも抹消されているが、あの映画を観たとき、南野陽子のかわいさ、丹波哲郎の見事な演技を押しのけて、阿部の存在感は際だっていた。その後、つかこうへい先生が俺に遅れること5年ほどで彼の能力に目をつけ、「熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン」が生まれたのだ。阿部寛を発見したのは、俺とつか先生である。

榎木津びいきな自分としては、もっと活躍してもらいたかった(≒もっと馬鹿であってほしかった)ような気もするが、それは京極堂シリーズ外伝である「百器徒然袋」を読んでいるからで、京極堂シリーズ本編では、榎木津は何の役にも立っていない場合が多い。それに短い映画の中では、榎木津が前に出すぎるとバランスが崩れるのだろう。ぜひ、「百器徒然袋」を、阿部寛主演でテレビシリーズ化でもしてほしいものだ。

堤真一の京極堂、永瀬正敏の関口巽については意見が割れるところだろう。自分としては納得。堤は京極堂の人生の大半を占めると思われる不機嫌な表情をきっちりと作っていたし、永瀬はそこに漂う空気感のようなものが、関口にぴったりだった。

しかし拾い物は田中れいな、じゃなかった麗奈の中禅寺敦子だろう。京極堂シリーズ唯一のまともな人物(たぶん、京極堂の妻・千鶴子もたぶんヘンな人だと思うから)、敦子は、ただ1人明るく輝き、それによって読者を安心させるとともに、闇をより深く描き出すという機能を持っている。その機能を、田中は映画の中で存分に果たしてくれていた。

シリーズ化に期待

さて、かなり大金を注ぎ込んだこの映画、シリーズ化はされるのだろうか。ぜひしてもらいたいものだ。自分はキャストはこのままでもいいが、阿部寛以外は別の役者で見るのも悪くはない。そうなると、京極堂は誰だろう?自分が小説を読みながら想像していた人物は、実は京極夏彦本人だったりするわけだが・・・。

 

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「姑獲鳥の夏」ホームページ(音出ます。職場では注意)

http://www.ubume.net/

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2005年7月10日 (日)

スティーブン・スピルバーグ「宇宙戦争」(ばれます)

世の中には、2種類の映画ファンがいる。スピルバーグが好きな映画ファンと、スピルバーグが嫌いな映画ファンだ。スピルバーグを嫌う人は、彼の映画には知性がないと言う。でも、映画に知性なんてクソクラエな自分としては、当然スピルバーグが大好きなんであります。

一時期、嫌いになっていたときもあった。妙に社会的な作品を作っていた頃である。しかし「シンドラーのリスト」でアカデミー賞を獲ってからは、またこっちの世界に戻ってきてくれた。そして、それ以降は作るたびに馬鹿映画の巨匠として不動の地位を確立しつつある。

そして今回の「宇宙戦争」。また一歩、その階段を上ったような気がする。スピルバーグの最高傑作として誰もが認める「1941」には一歩及ばなかったかもしれないが、出色の出来と言っていいのではないか。

何が驚いたかって、H.Gウェルズの原作、そして1953年の映画「宇宙戦争」のイメージをそのまま受け継いだことである。通常、著名な監督が原作のある映画やリメイクに取り組む場合、独自の視点でイメージを再構築するものだ。

だがこの映画で見た光景は、小学2年生のときに読んだ「

宇宙戦争

うちゅうせんそう

」に描かれていた挿絵や、東京12チャンネルで土曜日の午後に放送していた1953年製作の映画を観たときに、印象に残った映像そのままである。「3本足ロボット」の攻撃や、家の中に入り込んでくるホースのような触手など、大部分の構図が共通している。あまりに唐突な終わり方も忠実になぞった。相違しているのは宇宙人がタコじゃなかったことぐらいだ。もちろん、映像的には最新の技術で格段に迫力あるものとなっている。スピルバーグは、この映画で「イメージを創り上げる」ことは放棄し「イメージを映像化する」ことに注力したようだ。そのねらいは十分達成されている。

CGなどの技術的な進歩はもちろんだが、スピルバーグ自体も進歩している。それは、モンスターの描き方だ。97年の「ロスト・ワールド」の後半、高級住宅街を練り歩くティラノサウルスを見て「スイピルバーグは怪獣の撮り方を知らねえなあ(恐竜だけど)。日本の怪獣映画のビデオを10本も送りつけてやろうかな」と思ったものだ。しかし、どうやら誰かが本当に送りつけたらしい。今回の3本足ロボットの見せ方など、随所に日本の怪獣映画、それも黎明期の、怪獣が恐怖の対象として描かれていたことの作品の影響が強く見て取れる。押しも押されぬスター監督なのに、ちゃんと勉強しているところが泣かせるではないか。

もっとも、「父と子」の絆などを描いた人間ドラマは、ロスト・ワールド同様ぜんぜんダメで、これは全く進歩していない。それでこそスピルバーグというものである。

人には全くもってお勧めできない映画であるが、自分としては大満足。最近、観る映画がどれも満足度が高くて嬉しい限りだ。

ところでこの映画に、ひとつだけ大きな疑問が残る。

いったい大阪ではどうやって3本足ロボットを何体も撃破したのだろう?

「世界最強の国」の軍隊もかなわない敵を、関西人だけはいとも簡単に倒してしまったという伝説だけが映画の中で語られる。きっとスピルバーグは来日したとき、大阪でとてつもなく恐い経験をしたに違いない。

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「宇宙戦争」ホームページ

http://www.uchu-sensou.jp/

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2005年7月 3日 (日)

クリストファー・ノーラン「バットマン ビギンズ」

「アメリカン・コミックスの映画化」を高いレベルで成し遂げた作品。

ティム・バートン監督のバットマンや、「スパイダーマン」「X-MEN」といった作品は、確かにコミックスが原作ではあるけれども、実に映画的な創りになっていためにその原作をあまり意識することなく観られる。一方で、コミックスを映像化する、ということに優先度を高く置いた作品もある。最近では「デアデビル」なんかがその典型だ。これらはひとつ間違うと「○○の映画化」という以外に何も語るべきことのない作品、「アメコミもの」というまこと失礼な呼び方しかできない映画になってしまうリスクもある。

今回の「バットマン・ビギンズ」は、どちらかというと後者に分類できる。前半のチベットの展開(日本、アジアへの誤解も含む)は実にアメリカンコミックス的だし、後半の舞台となるゴッサム・シティの、アメリカの都市のにおいが伝わってくるようなリアルな描写はどこか無国籍な雰囲気だったこれまでのバットマンシリーズに比べて、生の「アメリカ」を伝えてくるからだ。

これまでの映画とは方向性が違うのは宣伝を観て分かってはいたが、自分が最も違いを感じたのはそこだ。あとは好みの問題だが、これまで「デアデビル」にも「SPAWN」にも「ザ・フラッシュ」にもいまひとつのめりこめなかった自分は、ちょっと壁を感じた。しかしこのテイストが好きだという人も多いだろうし、映画自体は力の入った秀作で、とても「アメコミもの」などと呼ぶ気にはなれない。

渡辺謙やモーガン・フリーマンにリーアム・ニーソンと、きら星のごとく豪華共演陣をそろえているのはこれまでのバットマン映画と同じ。個人的には「えーこれがあの人?」とびっくりさせてくれたゲーリー・オールドマンとルドガー・ハウアーに拍手だ。

今回観たのは柏の小さな映画館。そこには小さいながら3つのスクリーンがある。今上映しているのが「バットマン・ビギンズ」「ミリオンダラー・ベイビー」「ダニー・ザ・ドッグ」の3本。お気づきだろうか?この全てにモーガン・フリーマンが出演しているのである。まさにハリウッドの長門裕之。「スケバン刑事」をハリウッドでリメイクするなら、暗闇指令はモーガン・フリーマンに決定だ。

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スター・ウォーズ 旧3部作連続鑑賞

この土曜日は歯医者のキャンセル待ちをしており、自宅待機だった。することがないので「スター・ウォーズ」旧3部作を通して観ることにした。

旧3部作「特別編」トリロジーBOXはビデオで持っていたのでDVDは買っていなかったのだが、「シスの復讐」を観てむしょうに旧三部作が観たくなったのでアマゾンで購入。税込み6,480円とはお得だ。

旧三部作が観たくなる、というのはこの「エピソード3」が成功だったことの何よりの証左だろう。「ジェダイの帰還」のラスト、ダース・ベイダーを荼毘に付すシーンは、新3部作を観てからだと感動が一層深まる。そのあとの、物議を醸しているあのデジタル処理は、自分としては許容範囲。どうせならクワイ=ガン・ジンも出してほしかったぐらいだ。

結局、歯医者から電話はなかった。

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映画「逆境ナイン」(それはそれ、バレはバレ)

思いがけず面白かった。

「逆境ナイン」は、マイナーながら個別の作品に熱狂的なファンの多かった「少年キャプテン」(97年に廃刊)で89年から91年まで連載された、島本和彦のマンガだ。当時、島本は自らを題材にした「燃えよペン」も連載しており、「炎の転校生」以来突き当たっていた壁を破ったのがこの2作品だったといえる。この後しばらくして、島本マンガの名セリフを集めた「炎の言霊」が出版されて人気を集めたが、この中に「逆境ナイン」のセリフが多数収録されていたことから「もう一度読みたい」という要望が強く寄せられ、コミックスがワイド版で再版となる。自分が逆境ナインを読んだのはこのタイミングだ。作品的には、「炎の転校生」ほどの衝撃はないものの、島本独自のセンスを、ひとつのスタイルとして確立したという点では注目に値するといえるだろう。

それが突然映画化されるという。なにを今さら、と思ったが、「地獄甲子園」の思いがけない高評価や「少林サッカー」「火山高」といった海外のハチャメチャ(死語)映画のヒットにも触発されたのだろう。あるいは「タッチ」へのあてつけか。しかしやはりこの作品の根幹は島本スタイルのマンガ的表現である。それを無理に映像化してもさほど面白くはならないだろう、と感じたので、期待はしていなかった。

しかし6月にオープンしたばかりの「MOVIX三郷」で上映することが分かり、シネコンの見学がてら行ってみることにした。

という心理状態で観たのであるが、存外よく出来た作品である。島本スタイルをどう映像化するのか、あるいはしないのか、という点にまず興味があったのだが、頑張って映像化していた。だが、それは必ずしも成功とは言い難く、2時間弱の映画全体を引っ張るほどの要素には至らなかった。

そこを埋めていたのは、「高校生映画」の遺伝子である。

高校生映画についてはこのエントリーでちょっと触れたけれども、最近で言えば「ウォーターボーイズ」や「がんばっていきまっしょい」のような、ぬるめの温度で高校時代を描いた、多少ノスタルジックな映画のことだ。日本の高校生映画にはいくつか共通する特徴があって、その1つが「地方色を出す」ということだ。

この映画でも、舞台となった三重の風景が、リアルに描き込まれていた。美しい自然や、煙をもくもくと出すいかにも地方にありそうな工場の煙突などを、ロングショットの多用で巧みにスクリーンに落とし込んでいる。また、さりげなく挿入されている夕方のヒグラシの声、明け方に鳴く虫の声、といった効果音も、サブリミナルにノスタルジーを刺激する。こうした小技の部分にも手を抜かない、丁寧な姿勢に好感を持った。

そしてもう1つ、高校生映画になくてはならない共通要素といえば清楚でかわいいヒロインだ。これを演じたのが堀北真希。監督の強い要望で実現したというが、大成功である。目に力のある堀北に、あえてボケた演技をさせることで何ともいえない妙味が生まれた。

基本的には漫画的技法を映像化した作品でありながら、そこに高校生映画の甘酸っぱさで膨らみを持たせ、しかもそこに逃げることなく最後までギャグ映画であり続けた。制作スタッフの「不屈の闘志」が伝わってくる佳作である。

 

と、いろいろ述べてはみたが、ちょっと分かりにくいかもしれない。以前から、自分の文章は整理されていなくて何を伝えたいのかよく分からない、と指摘されてきた。これは自分も大いに反省しているところである。

そこで今回は、グラフを使って自分の感じたところをよりクリアーに伝えてみたいと思う。この映画で受けた感動を分析すると、下記のようになる。

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・・・世の中、分かりにくくしといたほうがいいこともあるわけで。

「逆境ナイン」のホームページ

http://www.gk9.jp/

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2005年6月26日 (日)

「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」
先々行オールナイト

先々行オールナイトを、有楽町マリオンの日劇1で鑑賞してきた。

まだ封切りされていないわけだから、ネタバレはもちろん、感想を詳細に書くことも避けなくてはいけないだろう。

なので一言だけ。

「この映画は、『スター・ウォーズ』である。」

これが、この映画に対する賛辞であり、評価であり、考察である。

スター・ウォーズに望まれること、スター・ウォーズが目指したものが全て入っている。そして、余計なものは何もない。

小学4年生のとき、父に連れられて水戸の映画館で第1作を観たときの感動。この年になって、そのみずみずしい感動をまた体験できたことを、ジョージ・ルーカスと彼を支えた人達に、深く感謝したい。

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FOXの公式ページ

http://www.foxjapan.com/movies/episode3/

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2005年6月13日 (月)

角川グループ60周年記念「戦国自衛隊1549」(ばれます)

原作のある映画やドラマを観るときには、全く別のものとしてとらえるようにしている。メディアが違えば、中身も違うのは当たり前だ。

だか続編やリメイクとなれば話が違ってくる。それらは前作と比較されることを前提に作られるわけだから、それを意識しないで観るのはかえって制作者に失礼だ。

というわけで「戦国自衛隊1549」。言うまでもなく1979年の「戦国自衛隊」の続編だ。旧作は日本の戦後SFの大家、半村良の同名小説を原作にしているが、今回はその半村版戦国自衛隊へのトリビュートとして「終戦のローレライ」「亡国のイージス」の福井晴俊が書き下ろした小説に基づいている。

1979年、当時小学生だった自分は兄らと一緒に劇場で「戦国自衛隊」を鑑賞した。その時の衝撃は今でも明確に思い出すことができる。派手な戦闘シーン、無意味なゲスト、とてつもなくいやらしいクーデターの場面、残酷な描写、印象的な挿入歌、悲しい結末と、何もかもが鮮烈だった。

それが25年ぶりに帰ってくるのだ。期待しすぎは良くない、と思いつつ、期待せずにはいられないというものだ。

だが、その出来映えはやや残念なものだった。

何が悪いというわけではない。脚本もシンプルながらうまくまとまっていたし、「ゴジラ」で釈由美子を起用し大いに面白い作品を撮ってくれた手塚昌明監督も、奇をてらうことなく堂々とした正攻法の演出を見せてくれた。俳優陣はみなすばらしく、江口洋介、鈴木京香、鹿賀丈史に伊武雅刀、生瀬勝久に嶋大輔に的場浩司、それぞれ持ち味を十二分に発揮していた。戦闘シーンやCGもそれなりによく出来ていた。途中でだれることもなく、いいテンポで最後まで一気に見せてくれたので眠気は全く感じなかった。

にもかかわらず、見終わった後の手応えが今ひとつなのである。何かこう、よくできたVシネマを観た、というぐらいの軽い印象しかない。

旧作の魅力は何といっても、大勢の武者たちに戦車やヘリコプターが立ち向かっていくという、ある意味滑稽な構図だった。滑稽ではあったが、エキストラの数が半端ではなく、妙に迫力があった。そしてその合戦シーンを、実に40分以上にもわたり見せられているうちに、すっかりその世界に引き込まれてしまった。新作にももちろん鎧武者対近代兵器の構図はあるものの、どうにも迫力不足だった。

前回は自衛隊の協力を得られず、戦車は自前で作り(その後「ぼくらの七日間戦争」でも使用された)、ヘリコプターは原作のバートルからシコルスキーに変更になった。その点、今回は陸上自衛隊の全面協力で、戦車や装甲車はもちろん、戦闘ヘリであるコブラまで本物が登場している。なのに、迫力不足なのはどうしてか。

そこに、「面白さ」というものの本質が隠されているような気がする。面白さというのは「面白くしよう」という工夫であり、心意気なのだ。本物を持ってきたから迫力が増す、というものではないのである。

今回のスタッフが、その工夫を怠っていたとは思えない。原作の福井は、「かつての角川映画が持っていた、わくわくするお祭りのような雰囲気を取り戻したい」と語っている。意気込みはあったのだ。手塚監督も、ゴジラ作品の演出においてゴジラという素材に頼り過ぎることなくカタルシスにあふれるシーンを創り上げてきた。それだけの手腕のある人だ。

あえて犯人捜しをするならば、これはプロデューサー、というか制作サイドの問題だろう。つまり予算をどこに使うか、ということを考えている人達だ。旧作のころには今やあっちの世界の人になってしまった(最近復活に向けて始動しているが)角川春樹が絶頂期だった。いろいろ問題はあったろうが、少なくともあのころの角川春樹は、どう金を使えば面白くなるのか、ということを知っていたように思う。ばかばかしいほどの大人数のエキストラを一度に出したり、戦車や潜水館を自前で調達してしまうといった奇抜な行動は、荒唐無稽とはいえ着実に映画に映画の中に面白さを吹き込んでいた。

日本映画に今決定的に欠けている人材。それは監督でも脚本家でもなく、プロデューサーなのかもしれない。

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戦国自衛隊1549のホームページ

http://www.sengoku1549.com/

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2005年4月12日 (火)

劇場版「名探偵コナン 水平線上の陰謀(ストラテジー)」(ばれます)

「名探偵コナン」の劇場版は、これが9作目になる。毎年ゴールデンウイークの公開が恒例となった。

コナン劇場版には、3つの重要な要素がある。

(1)謎解き。

(2)アクションや舞台設定など、映画的な面白さ。

(3)工藤新一と毛利蘭とのロマンス。

これら3つがどういうバランスで盛り込まれているかを観るのがひとつの楽しみになっている。

一昨年の「迷宮の十字路(クロスロード)」は、(3)が強く印象づけられた。高校生探偵・工藤新一は、現在小学生・江戸川コナンになっているわけだが、恋人・毛利蘭はそれを知らずにコナンに接している。だから新一と蘭とは直接会うことはできない。この「会えない」という関係の中で、どうロマンスを描くのか、という点は、制作側のクリエイティビティを刺激するのだろう。毎回本当に切なく、涙を誘う場面が展開する。特にこの「迷宮の十字路」では、ほんの一瞬、この2人が再会する。これはシリーズのセオリーからすれば反則なのだが、あえてその反則をすることで、一層悲しく、純粋な2人の想いを強調することに成功した。

昨年の「銀翼の魔術師(マジシャン)」は、(2)である。飛行機の中という密室の中で事件が起こり、事件が解決し、その上で飛行機そのものが事件に巻き込まれる。後半の息もつかせないスリリングな展開は、大人でも思わず手に汗を握る。本当に手に汗を握ったのはシルベスター・スタローンの腕相撲映画「オーバー・ザ・トップ」以来だった。

そして今回は(1)の謎解きに重点を置いていた。決して膝を打つようなアッと驚くトリックではないが、ストーリー全体の構図が「二重」というキーワードになっていて(現在と過去、海と陸、という具合に)、そのキーワードが犯罪の種明かしに結びつくという、よく計算された構成に感心する。ここまで練り込まれた脚本が、今の日本映画界にどれだけ存在するだろう。

とにかくこのシリーズは、どの作品も実に丁寧に作られており、スタッフの意気込みが強く感じられる。伏線の張り方やエピソードの見せ方など、きっちりと基本を踏まえた作りになっていて、映画の面白さの基本を改めて思い出させてくれる。これだけ長寿シリーズでありながら、オープニングでは必ず主要な登場人物、コナン誕生のいきさつなどを説明するなど、観る側のことを第一に考える姿勢も好感度大だ。

そして、多くの登場人物を、決して無駄にせず描ききるあたりも制作側の力量を示している。たくさんの容疑者だけでなく、毛利小五郎、鈴木園子、阿笠博士、灰原哀、少年探偵団の子供たちに至るまで、決してずさんに扱わず、それぞれに見せ場と、事件やその解決へのかかわりを用意している。きちんと扱えないキャラクターは最初から出さない。この作品最大のおいしい役どころ、怪盗キッドが9作品のうち2作品にしか登場しないのも、出し惜しみ以上の理由があるのだ。

来年は10作品目が登場する。アニバーサリーとして超大作になるそうで、今から楽しみだ。

しかし、このコナンや「クレヨンしんちゃん」、1年の休養を経て来年復活する「ドラえもん」、そして「ポケットモンスター」などは、興行的に成功を収めているだけでなく、作品としてのクオリティーも相当に高い。日本のアニメーションというと、すぐに宮崎駿や押井守の名前が挙がる。もちろん彼らは素晴らしいけれど、作品は数年に1本しか出てこないし、彼らの個人的才能は真似できるものでもない。コンテンツ産業の振興と育成を考えるなら、これら毎年コンスタントに面白い映画を作り続けている人達の仕事ぶりに目を向け、それを支えているものは何なのか、検証していくことのほうが大事なのではないか。

コナンを上映している劇場に行くと、子供ももちろんいるけど、中高生のアニメファンに混じり、1人で見に来ている大人(すいません、俺もです)や、若いカップルも以外に多く見受けられる。この人達は、ここに良質なエンターテインメントがあることを知っている。それを自分で見つけようとする姿勢を日本人が失わない限りは、日本のエンターテインメント業界にもまだ少しは望みがありそうだ。

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名探偵コナン 劇場版ホームページ

http://www.conan-movie.jp/

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2005年4月 5日 (火)

ジャッキー・チェン「香港国際警察 NEW POLICE STORY」(ばれ)

うーむ、面白い。面白いぞ!偉大なり、ジャッキー・チェン。

もう50歳だというのに、過激なアクションに真っ向から取り組む姿勢には本当に頭が下がる。しかしそれだけではない。今回は、冒頭から中盤すぎまで、ずっとジャッキーはアルコール浸りのすさんだ生活を送っている。悲惨な事件のショックからだが、ここまで落ち込んでいる演技を見せるのは初めてではないだろうか。50を過ぎてなお、新たな領域を切り開こうとするその心意気が実に天晴れだ。

そしてジャッキーと共に、香港映画の成長ぶりも目を見張る。この国の映画は、この20年ほどの間、昨年より今年、今年より来年、という具合に着実に面白くなってきた。ポリス・ストーリーシリーズだけを見てもずいぶんと進化している。昔はマフィアやギャングといった、いかにも悪党が相手だったのに、今回の相手は暇つぶしに犯罪を起こす金持ちのボンボンという、完全な都市型犯罪者だ。

香港映画の強みは、ハリウッド映画も、日本映画も、そして最近めきめきと実力をつけてきた韓国映画も、いいところはまるでベムスターの腹のようにどんどん吸収してしまうことだ。今回も、青島刑事のようなコートを着た若い刑事が出てきたり、こりゃ「シュリ」だよな、というアクションシーンなどが次々と登場してくる。だが、それでいて絶対に香港映画らしさは失わない。どんなにいい武器を持っていても、どんなに大人数で包囲しても、最後は1対1の殴り合いで決着をつける。

それにしても、ハリウッドならニコニコして適当にカンフーでも見せておけば何百万ドルという金をまたたく間に稼げるというのに、それに飽きたらずまた香港に帰ってきてこんなにも熱い映画を作ってくれるとは、何とも格好いい。格好良すぎるぞ!

ジャッキー・チェンとは香港の映画スターの名前ではない。偉大な男の生き方を示す言葉なのだ。

jc
公式ホームページ
http://www.hongkong-police.com/

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2005年3月12日 (土)

ジョエル・シュマッカー「オペラ座の怪人」
~A・L・ウェバーチャンピオンまつり その4~

これは傑作だ。

なぜアカデミー賞の作品賞にノミネートされなかったのか?なんてことはどうでもいいと思えるほど面白い。天晴れなり、ジョエル・シュマッカー。

ミュージカル「オペラ座の怪人」を、ハロルド・プリンスが施した演出も踏まえながら映画化した。だいぶ前に企画され、主演は一時はアントニオ・バンデラスで決まりいう噂も流れたが、二転三転したのちやっと実現。しかしウェバーは監督については当初からシュマッカーで決めていたのだという。

シュマッカーと言えば比較的好き、嫌いの分かれる監督だ。自分は支持派。理屈ぬきに面白い映画を作ってくれるからだ。シュワルツェネッガーが悪役に扮した「バットマン&ロビン」は、この作品から完全に名前を消したティム・バートン監督の残像を求めるファンからは総スカンを食ったが、コミック調で痛快な一作だった。

そのシュマッカーが監督すると聞けば、嫌が応にも期待は高まる。そしてその期待に十二分に応えてくれた。

ところで、この映画はジャンルで言うと「高校生映画」だと思う。

これは自分が勝手にそう呼んでいるジャンルなので耳慣れないはずだ。「青春映画」より絞り込んだ概念で、エッチなシーンとかはもちろん、それが暗示的に描かれることもなく、人間的な成長が描かれ、効果的に音楽を使っており、見終わった後に清涼感の残る映画のことを言う。その最高傑作は大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」であり、最近のヒットは矢口史靖の「ウォーターボーイズ」だ。菊池桃子主演の「パンツの穴」はちょっと違ってて、少女隊主演の「クララ白書」はその範疇に入る。なんとなくおわかりいただけただろうか。

なぜこのジャンルに位置づけたのかというと、主役3人(ファントム、ファントムに懸想されたクリスティーヌ、クリスティーヌに岡惚れているラウル)が、みな子供として描かれているからだ。

ファントムは、奇形であるために見せ物小屋で少年期を過ごし、そこを逃げ出して以来ずっとオペラ座の地下室で暮らしてきた。彼にとってオペラ座の中が世界の全てだ。そこでは精神的な成長など望むべくもなく、子供の心のまま、体だけが大人になっている。

恋敵となるラウルは、子爵家という裕福な家庭で、何不自由なく育ったために、ファントムとは正反対の境遇ながら、これも子供のまま大人になってしまった。

クリスティーヌは実際に子供なのだが、これも父親べったりで育ったためか精神的にはお子サマだ。

この中でも、やはりファントムの幼児性は群を抜いている。クリスティーヌをラウルに取られそうになると、感情を激発させて殺人まで起こしてしまう。とばっちりで殺された大道具係には気の毒だが、基本は子供っぽい行動だ。

「ガラスの仮面」で「嵐が丘」の出演が決まった北島マヤは、ヒースクリフから引き離されるキャサリンの心情を掴みきれずに苦心していた。それを、ふだん遊び相手のいない子供が、偶然出会って遊んでくれたマヤと分かれたくない、と泣き叫ぶ姿から読み取ったのである。

↓このシーン。
maya1

「素朴で、自分の感情に正直で、だからこそわがままで…………激しい!」

これこそ、ファントムの心情そのものではないか。

そしてこの映画のクライマックスは、3人の誰が先に大人になるか、という競争だ。最初に抜けるのはクリスティーヌ。やはり女性のほうが精神的な成熟が早いのか。ファントムの思いを受け入れる決心をすることで、少女は大人の女に変わる。そしてファントムにキスをするわけだが、このキスの衝撃が、ファントムを一気に大人にしてしまう。それはさながら、北島マヤが「奇跡の人」で「ウオータアアアア」と叫ぶシーンのヒントになった、顔面で水ヨーヨーが破裂したような感覚だったのだろう。

↓ちなみにこれ。
maya2

そして大人になったファントムはあっさりと身を引く。これを見て、クリスティーヌは女から母へと二段階変身を遂げる。サナギマンからイナズマンへ、超力招来だ。母になると、こんどは大人のファントムよりいまだ子供のラウルに関心が向く。だからクリスティーヌはラウルのそばにいようと考えたのだ。

ラウルはその後もずっと子供であり続け、年老いていく。しかし、さびれたオペラ座のオークションで若かりしころの三角関係を思い出し、その記憶をたどることでやっとクリスティーヌの、そして恐らくファントムの心情を理解することになる。このとき、初めてラウルは大人になったのだ。この映画は、全体としてラウルが大人になる課程を描く、という構図になっている。

3人がめでたく大人になったところでジ・エンド。決してハッピーエンドではないけれど、実にさわやかだ。まさしく高校生映画の後味である。

これは、基本線としてはミュージカル「オペラ座の怪人」と同じだと思う。キャラクター設定や人物関係をジョエル・シュマッカーなりにぐっと明確にした結果がこうなのだろう。

しかしそんなにさわやかでは、肝心な雰囲気が違うではないか、と言われるかもしれない。ミュージカルではもっと官能的な雰囲気が漂っている、と。

違わないのである。高校生映画は、十分に官能的だからだ。

エッチなシーンなんかなくても、頭の中はエッチなことで一杯なんだろうな、という年代の若者が、それを感じ取られないようにぐっとこらえている様子を見るだけで、観客側にはエッチな雰囲気が十分伝わってくる。官能的なムードを出したいのなら、むしろエッチなシーンは邪魔になるのだ。

ハロルド・プリンスはミュージカルの演出にあたり、障害を持つ人たちの性生活について調査研究したと言われている。そして、そこには実に豊かな性の世界が存在していることを知ったのだという。逆に考えれば、性を無駄に消費している人間には、真に官能的な世界は味わえないのだろう。

みうらじゅんも「正しい保健体育」(理論社刊)で「20歳になるまでセックスは禁止」と繰り返し強調している。若いうちから性をぞんざいに扱っていると、官能的な世界を味わうために必要な感受性が発達しないからだ。

ファントムについてシュマッカーは、インタビューの中で「生まれから一度もキスをしたことがない男だ」と明言している。ファントムが何歳なのか知らないが、その内部には極大化した甘美な世界への憧れが充満していたはずだ。ジェラルド・バトラーはそれを正確な演技によって表現することで、映画全体にセクシーなムードを漂わせることに成功した。

さわやかで、官能的。

映画版「オペラ座の怪人」は、ほとんどの人が高校生当時に味わい、そして大人になるにつれて忘れてしまったその感覚を思い出させてくれる。もっとも自分は日頃からその感覚を失わないために、モテないようにしているから思い出すまでもなかった。

「オペラ座の怪人」のホームページ
http://www.opera-movie.jp/

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2005年3月10日 (木)

芝山努「がんばれ!!タブチくん!!」

CATVで視聴しているチャンネルNECOが、今月シリーズ3作品を一挙放送している。

第1弾の「がんばれ!!タブチくん!!」は1979年公開。もう25年も前の作品だ。

これを劇場で観たときは、小学生。俺にもそんな時代があったのだ。

兄に教えられ、ブームが来る前に原作の単行本を読破していた。青年誌出身のいしいひさいちの漫画は、当時の自分には衝撃的な面白さだった。

原作を読んでいたせいか、劇場ではあまり笑えなかった記憶がある。しかし今改めて観てみると、けっこうおかしい。考えてみれば4コマ漫画をいきなり劇場用映画にするなど、簡単な仕事ではない。ひとつひとつのネタを丹念につなぎ合わせて、丁寧に漫画の世界観をアニメーションに仕立て直した芝山努の手腕には感服する。

その後、芝山は劇場版「ドラえもん」の監督として不動の地位を確立した。しかし彼のベストワークは、ドラえもんを任される前の81年に監督した「21エモン 宇宙へいらっしゃい!」ではないかと思う。21エモン独特の不気味さをうまく生かしつつ、シンプルかつ濃厚な冒険活劇に仕上がっていた。

エモンで思い出した。

「がんばれ!!タブチくん!!」には重要なキャラクターとして、さきごろ逮捕された西武帝国の堤氏が「ツツミオーナー」として出てくる。

200503100057001

オーナー特別席で観戦し、観客がいなければ3万人のエキストラを雇い、タブチの引退試合を5試合もやり、それが飽きられると西武解散試合を命じ、キャッチャーフライを巨大な扇風機でホームランにする。金の力でなんでもできると思っている、それがツツミオーナーだ。

実に正確なキャラクター設定だったわけだ。そして、驚くのはそのとんでもないキャラクターを、この人は25年も演じていたのか、ということだ。ホリエモンが球団買収に成功していれば、いい後継者になれたろうに。

「がんばれ!!タブチくん!!」の中で活躍している田淵や安田らの選手はみなとうの昔に現役を引退し、別所毅彦や根本陸夫はもはやこの世にいない。そんな中でオーナーだけはついさっきまで現役でいたことになる。

恐るべきバイタリティー。それはスクリーンの「ツツミオーナー」にも、十二分に表現されている。圧倒的なパワーが、子供ながらに印象的だった。

ただし、声は肝付兼太(スネ夫)。

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2005年1月30日 (日)

チャウ・シンチー「カンフーハッスル」(ばれます)

吉田戦車の初期の傑作「戦え!軍人くん」の中に、こういうくだりがあった。

野戦病院で、今にも死を迎えようとする兵士が呻く。
「ううう・・・し、死ぬ前に ひと目 浅香 唯ちゃんに会いたかった」
それを聞いた戦友が、死にそうな兵士の首を締めて叫ぶ。
「唯ちゃんはおれのもんだって言ったろ! お前『C-girl』からのにわかファンだろうが。
 おれなんかスケバン刑事のときからファンなんだぞ!」
結局、その兵士の墓標には「工藤静香のファン、ここに眠る」と書かれることになる。

この漫画を読んでわかるのは、浅香唯のファンはC-Girl以降のファンとスケバン刑事Ⅲのときからのファンに分かれるということだ。しかし、そのスケバン刑事からのファンも、それ以前、つまり「ヤッパシ…H!」や「コンプレックスBANZAI!!」を歌っていたころからのファンから比べればにわかファン、ということになる。浅香唯のファンは、3層に分かれているのである。

香港の人気スター、チャウ・シンチーのファンも、おおむね3層に別れている。つまり「少林サッカー('01)」からのファン、「食神('96)」からのファン、それ以前からのファン、というように。

自分はこの真ん中に当たる、「食神」からのファンだ。この立ち位置は実に中途半端である。「チャウ・シンチーのファンです」と公言するとき、少林サッカーからのにわかファンだと思われはしないかという不安と、ディープな香港映画ファンに突っ込まれるのではないかという不安と、2つのスリルを同時に味わうことになるからだ。

ともかく、チャウ・シンチーが監督・主演を務めたこの「カンフーハッスル」、相変わらず香港映画の粋を極めて煮詰めて培養して核融合させたようなエネルギー満載の映画だ。

カンフー映画の醍醐味というのは、なるべくCGやワイヤーを使わず、生身の肉体をハイスピードでぶつけ合うことだと思っていたが、この作品では無駄なまでにCGを多用してカンフーを描いている。それでいて決してカンフーを馬鹿にした感じになっていないのが面白い。

それはあちこちのインタビューでチャウ・シンチーが語っている「カンフーにあこがれていて、一度カンフー映画を作ってみたかった」という言葉が、嘘でないことの証左だろう。

この映画には往年のカンフー映画全盛期にいくつかの作品に出演した、カンフーの心得のある役者が何人も出演している。彼らが極端にさえない(というか、薄汚い)中年親父の格好をさせられているのはチャウ・シンチーのいつもの演出だが、カンフーで戦うシーンになると、その中年親父が実に格好良く見えてくる。そこには「本物」があり、それを撮る側にも彼らや、カンフーに対する畏敬があるからだ。

ラストはお約束の、荒唐無稽なチャウ・シンチーの大活躍だ。その尊大なまでの存在感こそ、彼の映画に最も期待しているところなのは確かだが、今回はその尊大さの裏に、カンフーに対する尊敬の眼差しという、謙虚さが隠し味として効いている。

そして、尊敬を向けられているのはカンフーだけではない。多くの映画のパロディーというか、オマージュのような要素もふんだんに盛り込まれている。恐らく、自分が気付いた部分の数倍はあるだろう。そこには映画が好きでたまらない、というチャウ・シンチーの素顔がのぞく。気に入ったのは窮地に立った「斧頭会」の団員が花火を上げて援軍を乞うシーン。あれは「バットマン」のバットサインなわけだが、映像だけで十分それと分かるのに、わざわざダニー・エルフマン調のBGMをつけてくれるサービス精神。これぞ香港映画である。そして、伝説の刺客「火雲邪神」に会おうとその部屋の前に立つと、赤い血の洪水のようなイメージがよぎるシーン。あれは「シャイニング」だろう。そういう細かいパロディーが、これみよがしでなく、あちこちにさりげなく散りばめられている。

ただオモシロイ映画として観てもいいし、カンフー映画として観てもなかなかだ。そして映画ファンのマニアックな作品としても楽しむことができる。香港映画界はこの20年以上、着実に進化を遂げてきた。その一端を示す傑作と言えるだろう。

ところで、自分が高校2年のとき、クラスの仲間で作った映画には、浅香唯が出演している。つくば万博会場内でロケをしたとき、「EXPOスクランブル」という夕方の番組に出演していた彼女が写りこんでいるのだ。軽く自慢。ならねえか。

kungfu

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北村龍平「ゴジラ ファイナルウォーズ」

ちょうどこの映画を見た日に、1984年の「ゴジラ」を監督した橋本幸治氏が亡くなった。

84年の「ゴジラ」は、75年の「メカゴジラの逆襲」以来、久しぶりに制作されるゴジラ映画ということで注目を浴び、興行的にはそれなりに成功した。しかし、ファンからはさんざんな評価を受けた。

自分はこの84年ゴジラが大好きだった。今でも傑作だと思っている。ゴジラの出現をモチーフに、科学者やジャーナリスト、自衛隊、政府といったそれぞれの立場の人間がどう動くかをどん欲に描いたのがこの作品だ。そこにはリアリティーの欠ける部分もあったし、沢口靖子の下手な演技というご愛嬌もあったが、この映画には自分が特撮映画に最も望んでいる、独特の高揚感、カタルシスにも似た感覚が満ちあふれていた。

しかしファンはこの作品を認めなかった。なぜだろう。もちろん批判する側にももっともな理由はある。しかし、怪獣映画は作られるたびに非難ごうごうだ。そこには、一種の嫉妬がある。特撮映画というのは、「作ってみたい」と思わせる要素が強い。だから特撮映画のファンは、新しい作品が出てくるたび「自分ならこう作るのに」という気持ちが前に出てしまう。だからネガティブな反応をしがちだ。

9年もの間待たされたファンの期待は大きく、それだけに嫉妬も強かった。その声に押しつぶされてしまった84年版ゴジラは、災難だったというほかはない。

しかしいま一度言う。あの作品は傑作だ。氏の冥福を心から祈りたい。

そして今回の「ファイナル ウォーズ」の監督をしたのが北村龍平である。

それを聞いたとき「なんで北村龍平に・・・」と思った。

北村龍平が嫌いだからではない。むしろ好きなほうである。しかしこの人は、はっきり言って図抜けた才能があるとは思えない。ただ映像制作に対する実に素直な姿勢というか、直球な感覚を評価している。

自分はこねくりまわした、アーティスティックでお高くとまった単館上映な感じの映画は大の苦手だ。その点北村の映画はいい。作品を観ていると、なんだか高校時代に8ミリで映画を作っていたころを思い出す。要するに、素人感覚がそのまま画面に出ているのだ。

だから、北村がゴジラを撮ったら、特撮ファンの嫉妬心に油を注ぐのは目に見えている。しかも北村のことだから、やりたいことをやるだろう。油の上にまた油だ。

結果は予想どおりだった。ファンは怒り狂った。しかし北村は、それをあえて挑発するかのように、本当に好き放題やってくれた。

キングギドラ、モスラ、ガイガンにラドン、アンギラスにキングシーサー、へドラにミニラにカマキラス、その他数々のスター怪獣を登場させ、それらをショッカー戦闘員並みの扱いで退場させる贅沢ぶり。メインタイトル(オープニング部分)を、ブラッド・ピット&モーガン・フリーマンの「セブン」のメインタイトルを担当し、これを独立したジャンルとして認めさせることになったカイル・クーパーが担当。音楽なんてキース・エマーソンだ。日本人にはもっぱら「幻魔大戦」の音楽で有名なあの人である。映画の構成も、中盤以降はバトルシーンしかないという潔さ。地球人対X星人、ゴジラ対怪獣軍団が交互にえんえんと続く。

北村はファンに対する配慮なんか全くなしに、怪獣映画を作れる幸福を満喫しまくっていた。

「悔しかったらお前らも監督になってみろ」と言わんばかりに。

なんだか84年版ゴジラの恨みを、少し晴らしてくれたような気がした。

final

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2004年11月21日 (日)

宮崎駿「ハウルの動く城」

「やっぱり宮崎駿のピークは『ルパンⅢ世 カリオストロの城』だったよな」などとぶつぶつ言いながらも、新作が公開されるたびにいそいそと観に出かけ、DVDが発売されれば特典付きで購入している宮崎作品。本音を言うとやっぱり大好きなのである。ただ宮崎作品と聞くだけで無条件にありがたがる人たちがキライなので、その本音がストレートに出せないのだろう。ふっ、こんなちょっとシャイな自分が大好きさ。

今回の作品、感想を先に言ってしまうと実に面白かった。ナウシカ以降の宮崎作品では一番好きかもしれない。まあスタジオジブリ作品の中では、最もお気に入りなのは宮崎監督ではない「耳をすませば」で、それには及ばなかったが・・・

「スチームボーイ」について書いたとき、ジブリ作品において、声優ではなく俳優を起用することには不安がある、と言った。これまであまりいい印象がなかったからである。しかし今回は違った。倍賞千恵子も木村拓哉も、素晴らしい声の演技だった。倍賞の歌うような美しい声も、木村の艶のある声も、キャラクターをよく生かしていた。過去に宮崎作品に出演経験のある美輪明宏や若人あきら、もとい我修院達也らも今回のほうがハマリ役だったように思う。

なので、木村ファンでどうしようか迷っている人は迷わず映画館に走るべし。この先を読むのは観てからにしてください。

というわけで、ここから先は大いにネタばれします。






この映画のテーマは、「色気づく年寄り」である。

作品の構図は、主人公ハウルを3人の老婆(ソフィー、荒地の魔女、サリマン)が奪い合う、というものだ。荒地の魔女はハウルに近づいたソフィーに老婆になる呪いをかけてしまうし、サリマンはハウルの気を引くために国王を操って戦争まで起こしてしまう。ソフィーは意識せずにハウルの心をゲットするわけだが、この意識せずに、というのがいちばん始末が悪いというのは「冬のソナタ」のユジンの例を引くまでもなく周知の事実であるが、そのことはまあいい。

イケメン男と老婆たちが巻き起こすスラップスティック・コメディー。年老いても色恋への情熱は衰えることはない、という悲しくもおかしい人間の本質を、暖かいタッチで描き出している。

老いらくの恋、というのは女性に限ったことでなく、そういう意味ではこの映画も「美少女と3人の老人」という構図にしても良かったのかもしれないが、それだととってもいやらしくなり、恋というより性の話になってしまう。スタジオジブリが扱うにはちょっときつい。まあメディア世代の高齢化を受けて、今後そうしたジャンルの作品は数多く出てくることになるだろうが。現代エロ小説の巨匠、睦月影郎も今年になって「孫と・・・」という作品を上梓した。

それはともかく、男だと本質的にバカなので、こういう話も妙に深刻になってしまうおそれがある。その点、女性のほうがサッパリとしているからいい。11月14日のテレビ東京「ハロー!モーニング」では、モーニング娘。の紺野あさ美演じる氷川きよしの追っかけ主婦が一瞬でヨン様追っかけ主婦になるとうシーンがあった。この軽さが肝心である。男の場合はその軽さがないので、結果的に身を滅ぼしてしまう。自分も、そうならないよう気をつけたいものだ。だから、昨日までモーニング娘。一筋だったのが、明日にはBerryz工房の握手会に参加していたとしても、批判しないでほしい(ここ重要)。

だから、結末もとてもサッパリしている。ハウルに心が戻り、3人の争いのフェーズが恋から愛に移ったとき、18歳の心を持ち、唯一そのフェーズに進む権利を持つソフィーを残し、あとの2人はきっぱりと舞台を降りるのである。老人のミーハー心をくすぐるのは、表面的なカッコよさであって、本気で氷川きよしやヨン様と付き合いたいなんて思っているわけではないからだ。

このように、内容的にはかなり軽い映画である。人と自然との共生だとか深い人類愛だとか、そんなものを求めて映画館に来た人や、子供の教育にいいと思って観に来た人はガッカリだろう。むしろ、教育には極めて悪いかもしれない。しかし、「名探偵ホームズ」などで分かるように、スラップスティックな作品は宮崎の得意分野だ。ヘンな期待をせずに観れば、大いに楽しむことのできる会心の出来だと思う。

宮崎監督は「もののけ姫」が大ヒットしたとき、どこかのテレビ局のインタビューで「もう大作はいい。うんこの映画みたいな、くだらない作品に取り組みたい」と話していた。うんこは出ないにしても、その後の作品には「ナウシカ」や「もののけ」のような気負いが感じられず、好き勝手に面白いものを作っているような印象がある。それに理由をこじつけて「立派な作品」のように評する人たちも多いが、それでは「千と千尋の神隠し」や今回の作品を十分楽しむことはできないだろう。もったいない。

何も考えず、楽しめる映画。それ以上に何を求めるというのだろう?

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2004年10月30日 (土)

トム・クルーズ×ジェイミー・フォックス「コラテラル」

現代のロサンゼルスを舞台に、完璧に仕事をやり遂げようとする殺し屋(トム・クルーズ)と、何とかその殺し屋の運転手という役目を逃れようとするタクシードライバー(ジェイミー・フォックス)が丁々発止の攻防を繰り広げる「コラテラル」(監督:マイケル・マン、脚本:スチュアート・ビーティー)が本日封切られた。

この映画のみどころは、何といってもクルーズとフォックスの演技の応酬だろう。タクシーという限られた空間の中で、2人の男がそれぞれの生き様をかけて火花を散らす。その緊張感は、さながら「モーニング娘。サスペンスドラマスペシャル『三毛猫ホームズの犯罪学講座』」の安倍なつみと保田圭の真剣勝負を観ているかのようだ。

いつしか2人の男の間には、立場を超えた奇妙な友情めいた絆が生まれるが、それを決して押しつけがましい形ではなく、ごく自然に、そして控えめに描いているところに好感が持てる。

一晩という短い時間設定の中で、テンポよく物語が進んでいくのも小気味良く、観る者を飽きさせない。これは「24」でもおなじみの、米国ドラマが得意とする手法だ。

この映画は決してコメディーというわけではないが、どのシーン、どのセリフもどこか笑いを誘う雰囲気にあふれている。特にクルーズの演技は、恐らく本人としては決して笑わせようとしているわけではなく、極めて大まじめに演じているのだが、それが何ともいえずおかしい。「ザ・エージェント」でも垣間見せた、巧まざる笑いのオーラだ。フォックスも「エニイ・ギブン・サンデー」などで決して派手ではないが実に印象的な演技を見せており、今回もクルーズと五分の勝負をしている。しかしその身にまとったオーラだけは、やはりキャリアの差というべきか。

95年に公開され、今なお名優同士の対決を描いた傑作として映画ファンの間で語り継がれている、今回と同じマイケル・マン監督の「ヒート」と後半部分の展開がやや似ているので、ハリウッド的な展開の苦手な人にはちょっと退屈に感じてしまうかもしれない。しかし「インサイダー」でアカデミー賞にもノミネートされたマン監督は、オーソドックスながらところどころに小技を効かせた演出で、役者たちの意気込みをストレートに観客に伝えることに成功している。

トム・クルーズファンにも、そうでない人にもお勧めの一本。

また一歩、「笑の大学」に近づいた。

makizoe

「コラテラル」公式ホームページ
http://www.collateral.jp/

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役所広司×稲垣吾郎「笑の大学」

戦時中の東京を舞台に、娯楽の統制をはかろうとする検閲官(役所広司)と、何とか喜劇の上演にこぎつけようとする喜劇作家(稲垣吾郎)が丁々発止の攻防を繰り広げる「笑の大学」(監督:星護、脚本:三谷幸喜)が本日封切られた。

この映画のみどころは、何といっても役所と稲垣の演技の応酬だろう。検閲室という限られた空間の中で、2人の男がそれぞれの生き様をかけて火花を散らす。その緊張感は、さながら「モーニング娘。サスペンスドラマスペシャル『三毛猫ホームズの犯罪学講座』」の安倍なつみと保田圭の真剣勝負を観ているかのようだ。

いつしか2人の男の間には、立場を超えた奇妙な友情めいた絆が生まれるが、それを決して押しつけがましい形ではなく、ごく自然に、そして控えめに描いているところに好感が持てる。

7日間という短い時間設定の中で、テンポよく物語が進んでいくのも小気味良く、観る者を飽きさせない。これは「新選組!」でもおなじみの、三谷幸喜が最も得意とする手法だ。

この映画は決してコメディーというわけではないが、どのシーン、どのセリフもどこか笑いを誘う雰囲気にあふれている。特に役所の演技は、恐らく本人としては決して笑わせようとしているわけではなく、極めて大まじめに演じているのだが、それが何ともいえずおかしい。「Shall we ダンス?」でも垣間見せた、巧まざる笑いのオーラだ。稲垣も「広島に原爆を落とす日」などで決して派手ではないが実に印象的な演技を見せており、今回も役所と五分の勝負をしている。しかしその身にまとったオーラだけは、やはりキャリアの差というべきか。

96年、98年に上演され、今なお自分の中でストレート・プレイのベスト1に君臨し続けている舞台版とセリフはほとんど同じなので、これを観たことのある人はちょっと退屈に感じてしまうかもしれない。しかし「古畑任三郎」などでその手腕を発揮した星護監督は、オーソドックスながらところどころに小技を効かせた演出で、役者たちの意気込みをストレートに観客に伝えることに成功している。

舞台好きにも、そうでない人にもお勧めの一本。

また一歩、「コラテラル」に近づいた。

warai

「笑の大学」公式ホームページ
http://warainodaigaku.nifty.com/

「笑の大学」ブログ
http://warainodaigaku.cocolog-nifty.com/movie/

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2004年10月17日 (日)

ウィル・スミス「アイ,ロボット」

今さらネタが続いてすいません。

見逃している映画が多すぎて、とりあえず時間の合うのを観よう、ということで「アイ,ロボット」に。

何というか、実にマジメな映画だ。

歪んだ映画ばかり観ていたせいか、真っ当すぎてなんだか考える足がかりが見つからない。

でも、とても良くできた映画だ。ハードすぎない謎解きと、テンポのいい展開、目を見張るSFX、派手な銃撃戦にカーチェイスと、ハリウッド的面白さを詰め込んでおり、しかもそれをちゃんと消化している。いい意味で優等生的な作品。登場人物の個性と世界観の強烈さには欠けるが、そのぶんリアリティーを追ったのだろう。

この映画のMVPは、何と言ってもCGのロボット「NS-5」の“サニー”だろう。テレビCMでもその不気味な無表情ぶりをアピールしていたが、その無表情の中で実に微妙な演技をする。どのくらい微妙かというと、ケンシロウがカサンドラに向かっていることを察知したトキが浮かべた微笑のような演技だ。

↓これ

bisyo

toki

「演技」と言った。

まさにそれは演技のように感じられたのだ。

「トイ・ストーリー」でも、キャラクターは実に微妙な感情を表現していた。しかし、それはあくまでジョン・ラセターという天才が、そのように「描いて」いたのであって、さながら一流の絵画を観るような感覚だった。

しかし、この“サニー”は、「演技」をしている。このロボットは、最後までいい奴か悪い奴かよく分からない。そういうキャラクターを人間が演じている場合、観客は目や声の動きから、なんとかそのキャラクターの本性を見抜こうとする。俳優と観客との勝負どころである。その勝負を、いつしかCGと自分が繰り広げていた。

これは今までになかった、フシギな感覚である。

また一歩、蒙古覇極道に近づいた!

「アイ,ロボット」公式ホームページ
http://www.foxjapan.com/movies/irobot/

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2004年10月12日 (火)

マイケル・ムーア「華氏911」

なかなか近所の映画館で上映してくれないなあ、と思っていたらどんどん上映館が減ってきているので、あわてて駆け込み鑑賞。

今さらでもあるし、きょうもホテル住まいでYahoo!Cafeで更新しており、PCの使い勝手が悪いこともあるので(実は既に1回書き上げたとことで消している)、くどくど書くのはやめておきます。

それに、俺の感想も、世の中の人の大多数とたぶん同じだろうから。

その感想を代表しているのが、カンヌ審査委員であらせられる、クエンティン・タランティーノ先生のお言葉。

「政治は受賞には何の関係もない。単に映画として面白かったから、君に賞を贈ったんだ」(パンフレットより)

まったく、ドキュメンタリー映画が大のニガ手な自分がアクビひとつせずに最後まで観られるんだから、その構成と編集の技術にはただただ感服するばかりだ。

だけど、やっぱり自分はドキュメンタリーよりも、実は宇宙人が裏で操っていたりしれくれたほうが好きである。いや、実はこの映画もその事実を隠すためにニビル彗星の人達が仕組んだ罠なのかもしれない。俺の目はだませないぞ。
こんなことを書くと危険か?だいじょうぶ、足がつかないようにネットカフェで更新してるから。

この記事で更新が止まったら、スカラー波の攻撃を受けているものと思われます。白い服を着て救出に来て下さい。

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2004年10月10日 (日)

那須博之「Devilman」(今日もどこかでばれてます)

他人にはお勧めできないが、自分としてはそれなりに満足だ。

ご存じの通り、永井豪の漫画「デビルマン」(72年~)は、20世紀に描かれた最高の漫画と評する人も多い傑作だ。そして、恐らく日本で最初にハルマゲドンを描いた作品である。自分が読んだのは連載終了から10年以上経った84年。当時ハンサムな高校一年生だった自分も、とてつもない衝撃を受けた記憶がある。その2年ほど前、りんたろうの映画「幻魔大戦」でハルマゲドンという言葉は覚えたものの、その本当の意味を知ったのはこのときだろう。

「デビルマン」は、まさしく現代の黙示録[Apocalypse Now]だ。黙示録を映画化しようというのだから、それはうまくいかないのが当たり前だ。断片的にでも、その福音を自分たちなりに解釈して伝えることができればそれでいい。

しかし今回の「Devilman」を監督した那須博之は、そのほぼ全てを1本の映画に収めようとした。実に果敢というか、無謀な試みだが、その意気や良しである。印象的なシーンやセリフは律儀に押さえているし、キャラクター構成も多少の組み替えはあるものの、かなり原作に忠実である。

元来、自分は「原作に忠実」という評価軸は持っていない。メディアが違えばもはや別物であって、原作のある/なしは誰が出演しているか、というのと同じように、興味を持つか否かを分ける一要素に過ぎない。だから何かが映像化されるたび「原作のほうが面白い」「原作はこうじゃない」とヒステリックに叫ぶ人たちには辟易している。

しかし「デビルマン」に関しては例外を認めてほしい。この作品の真価は世界観やストーリーを越えたところにある。やはりその言葉にならない何かを伝えられなければ「デビルマン」とは言えないであろう。

那須は、全てを描こうとしつつも、それは根本的に不可能であり、作品としては中途半端に終わることをよく承知していたのだろう。映画人として、未完成の作品を世に出すことはその矜持が許さなかったのに違いない。だから彼の最も得意な分野の映画として外枠を作り、その中のモチーフとしてデビルマンを描いた。彼の得意な領域、それは「ビーバップ・ハイスクール」に代表される「高校生映画」である。そう、「Deviman」は、パッケージとしては「ウォーターボーイズ」や「青春デンデケデケデケ」と同じような、高校生のみずみずしい感性を描いた映画なのである。その中で扱われているデビルマンのくだりは未完成であるが、高校生映画としては完成している。

ただ、出来自体はあまり評価できるものではない。好感は持てるが下手な演技、美しいがぎこちないCG、どれをとってもVシネマ的な安っぽさが漂っている。俺のようにVシネマ好きならいいが、完成度を求める人にはつらいだろう。もっとも現在の日本映画界の現状(資金力、技術力、人材)では、正直これが限界、よく頑張った、という気もする。

また、那須の演出は、あまり芝居がかった演出や二重三重に貼った伏線などは用いることなく、比較的たんたんと展開させていくタイプのものだ。スペクタクルな演出を期待した人はこれにまずがっかりするのではないか。自分の場合、「セーラー服百合族」(83年、当時中学三年生)から「ピンチランナー」(2000年、当時社会人10年目)に至るまで、ずっと那須演出とともに人間的成長を遂げてきたため抵抗感はなかったが…。

そういったわけで、他人にはお勧めできないが、自分としては満足している。そして何より、この現代の黙示録に、逃げることなく真っ向から取り組んだ姿勢には敬意を表したい。

この作品自体は駄作に終わっても、また誰かが必ず映画化するだろう。それはハリウッドかもしれないし、ずっと先のことになるかもしれない。そうして語り継がれていくのが「デビルマン」だ。

おまけ:残念なこと2つ。

1)ミキちゃんが緑川蘭子にしか見えないのは俺の勝手だとして、冨永愛のシレーヌは、ただのコスプレお姉さんにしか見えなかった(まあ、それはそれでいいのだけど)。これで観客、特に女性客の85%ぐらいは席を半分立ちかけると思う。

2)パンフレットの「人物相関図」に「飛鳥了/○○○」と書いてある。いかに多くの人が原作を読んでいるとはいえ、こりゃないだろう。

silene

「Devilman」のホームページ
http://www.devilmanthemovie.jp/
「Deviman」のブログ
http://devilman.cocolog-nifty.com/movie/
「ぐんぐんぐんま」のレポート
http://futennochun.cocolog-nifty.com/gungungunma/2004/10/_.html

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2004年7月20日 (火)

大友克洋「スチームボーイ」(いきなりばれ)

楽しい映画だ。後半はほとんど闘いっぱなし。やっぱりアニメーション制作がサンライズだからだろうか?

冒険活劇、というふれこみだったが、ちょっと印象は違った。どちらかというとドタバタ活劇、おしゃれに言うならスラップスティック・コメディーに近い。

何しろクライマックスでは、万博会場でアメリカとイギリスが大々的に戦争を始めるのである。筒井康隆の初期短編に「深夜の万国博覧会」というのがあった。夜になると、万博会場は各国のスパイやテロリストの戦場になるという話だった(かな?)が、この映画もそんな雰囲気である。この設定自体、かなりコメディーだ。

続々登場する蒸気機関を発展させた兵器の数々も、宮崎駿のそれのように芸術的でもなく、「サクラ大戦」のそれのようにメカニックでもなく、どこか滑稽である。

そして登場人物も、善玉、悪玉がはっきりしておらず、憎めないキャラクターばかり。ストーリーの軸は、主人公、主人公の父、主人公の祖父という発明一家が、科学に対する姿勢の違いから対立を深めていくという人間ドラマなのだが、あまり深刻な骨肉の争いというわけでもない。表面上は争っていても、変人の科学好きという点で妙な連帯感があるせいか、どこか真剣味がなく、結局ホノボノとした家族の情景になっている。

しかし、あと半歩、というところでコメディーにはなっていない。この寸止め感が、何ともいえないフシギな味わいをこの作品にもたらしている。

妙な後味の作品だが、冒頭に述べたようにとりあえずは楽しいので、まあお勧め。責任は取りませんが。

ひとつ感心したのは、声の出演者。鈴木杏に小西真奈美など、声優ではなく俳優がキャスティングされている。スタジオジブリの作品も声優より俳優を起用する傾向にあるが、ジブリの場合「俺らのはそこいらのアニメなんかとは格が違うんだよ~」と言いたいのが見え見えで、ハナにつく。実際、作品を観ると必ず声に違和感がある。

ところがこの作品では、声と映像がぴったりと合っている。鈴木杏の演技力がすばらしいことは、昨年シアターコクーンで「奇跡の人」を観てよく知っているが、これはやはり大友や、音響監督の百瀬慶一の仕事をほめるべきだろう。特に、中村嘉津雄の演技がぐっとくる。最初に聞いてすぐ中村だと分かったが、映像と馴染んでいて、違和感が全くなかった。この人が声優、というのは記憶にない。よく起用を思いついたものである。

秋に公開が延びた「ハウルの動く城」では、木村拓哉が主人公を演じることが話題になっている。鈴木敏夫プロデューサーはサイゾー誌のインタビューに応え「やりたいというオファーがあったから起用した。こんなに人気がある人だとは思わなかった」とうそぶいている。それがどう出るか、と興味を持つこと自体、鈴木の術にはまってしまっているのが癪にさわるが、でもやっぱり興味深い。

sb

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2004年6月21日 (月)

深田恭子「下妻物語」

エメリッヒ監督に押井先生、庵野もすまん。

2004年上半期のベストムービーは、この「下妻物語」だ。

理由はもちろん、恭子りんがかわいいからです。

深田恭子演じる主人公「桃子」は、表情があまり動かない。モノローグも淡々としたものだ。それでいて微妙な感情の起伏がきちんと観客に伝わってくる。この子は目の力が強いからだろう。ラオウのような眼光の持ち主である。

だいたいあんな格好で大きな演技をしたら、ただのギャグだ。それをしなかったことで、映画全体のすっきりした味わいを支えている。

そのすっきり感は、やはりCM出身の中島哲也監督ならではといえる。1シーン1シーンとても丁寧に美しく作りこみながら、シーンごとに必要な印象だけを観客に与えて、くどい後味を残さない。登場人物はみんなアクの強い濃いキャラクターなのに、まったく腹にもたれない作品に仕上がったのは監督の手腕だ。

それにしても、舞台が下妻である。

自分は茨城出身だが、県庁所在地である水戸で育った、生粋のシチーボーイである。その自分からすれば、下妻など辺境の地もいいところだ。だいたい常総線沿線だし。県内の鉄道をランク付けすると、

常磐線

水戸線

水郡線

鹿島臨海鉄道

日立電鉄

常総線

となり、その下には石岡~鉾田間を結ぶ鹿島線しかない。来年つくばエクスプレスが出来ればまたひとつランクは下がるが、日立電鉄が廃線になるので順位は変わらない。

とにかく、そういうマイナーなところだ。が、この映画では、下妻は「田舎の茨城の中でも、特に田舎のところ」という描かれ方はしていない。むしろ、「無理すれば、東京にいつでも出られる距離にある田舎」として描かれている。その距離感は、多くの日本人の持つ、都会や“流行の最先端”に対するメンタリティーをそのまま物理的な距離に置き換えたものではないのか。だから多くの日本人にとって、身近に感じることのできる舞台になっていると思う。

もっともやはり自分にとっては筑波山や小貝川の風景が懐かしい。小貝川の堤防が決壊したときは、中学で募金などしたものだ。

ジャスコが町の文化の中心、というくだりがあったが、これは俺が育った水戸市西部でもそうだった。高校時代、下妻よりはちょっとは都市化されている下館(水戸線沿線)の同級生も、「下館の中心はジャスコだ」とスピーチしていた。

となると、ジャスコが中心、というのは茨城に限った話ではないだろう。日本国中で、生活の中心地となっていたジャスコ。イオンがエクセレントカンパニーになるのもうなずける話ではある。

話は戻るが、恭子りんが強烈にかわいい。パンフレットの広告を見ていたら、現在マニア増殖中のリアルドール「スーパードルフィー」の桃子モデルが作られるという。92,400円。一瞬、ぐらついた。危ない、危ない。

joso

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2004年6月17日 (木)

ローランド・エメリッヒ「デイ・アフター・トゥモロー」(注意!激しくばれます)

エメリッヒはアメリカ人になってしまったのか?

エメリッヒの作品といえば、「ユニバーサル・ソルジャー」に「スターゲイト」「GODZILLA」、そして「インディペンデンス・デイ」。いずれにも、いかにもハリウッド的な、大鑑巨砲型のバカ映画である。

ご存じのように彼はドイツ人だ。その「ハリウッド的なアプローチ」には、どこか誤解がある。日本好きのアメリカ人のように。そういうカルチャーの違いからくる微妙な誤解は、どうしてもチャンチャラおかしいものになってしまうのだが、そのチャンチャラおかしさと、もともとのハリウッドが持つバカバカしさがあいまって、とてつもないパワーを生み出すのが、エメリッヒ作品だ。

しかし、どうも今回はおとなしい。インディペンデンス・デイのように、エイリアンを素手でぶん殴ったり、パワーブックで異星人のコンピューターにアクセスしたり、米大統領が自ら戦闘機でUFOと闘ったりする荒唐無稽さは、ない。

まあテーマが地球温暖化ということで、少し真面目に取り組んだのかもしれない。だがその正面からのアプローチによって、ごく普通の(?)ハリウッドっぽい映画になってしまった。

見所も、ロサンゼルスを襲うハリケーンとNYが水浸しになるシーンは実にスペクタクルで良かったが、CGに頼りすぎという感も否めない。そのほかには、正直いって見所が少ない。

だいたい、北半球だけ凍らせて終わりなんて、生ぬるいじゃないか。これなら小松左京&深作欣二&角川春樹というてんぷくトリオが生み出した伝説の超大作「復活の日」のほうが突拍子のなさで数段上を行く。だって、南極以外の全世界を1本の映画の中で2回も絶滅させてしまったんだから。

もうエメリッヒのカン違いぶりは見られないのだろうか?だとしたら寂しい。いっそ、こんどは日本映画でも撮ってみてくれないだろうか。きっと嬉しいぐらいに誤解してくれると思う。その可能性の片鱗は、今回の映画で垣間見ることができる。(あれは、千代田区じゃないだろう・・・)

dat

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2004年6月12日 (土)

劇団☆新感線「髑髏城の七人」

97年に再演され、いのうえひでのり(演出)が「現時点でのベストワーク」(2000年の「踊れ!いんど屋敷」パンフレットより)と自ら評した「髑髏城の七人」。

それを、今年は古田新太主演版と市川染五郎主演版の2バージョンで上演する。単なるダブルキャストでなく、主演以外の配役も演出も異なる、2つの「髑髏城」を観られることになる。

まずは古太版が登場。東京では、新国立劇場と厚生年金会館の2会場で公演した。自分が観たのは新国立劇場。

敵味方入り乱れ、「七人」どころか10人以上の登場人物が見せ場を競い合う集団劇を、スピーディーな展開で見せていくいのうえひでのりの実力には脱帽だ。

橋本じゅんに河野まさとといった新感線のクセ者たちに加え、WAHAHA本舗の佐藤正宏、「熱海殺人事件・モンテカルロイリュージョン」以来つかこうへい作品の常連となった山本亨といった強烈な個性、それに水野真紀、坂井真紀、佐藤仁美という俺好みの豪華女優陣。

そうした中にあってもっとも印象的だったのは、商人姿で遊郭を取り仕切る、戦国版“男装の麗人”を演じた水野だ。

実はこの役、もともと男の役で、97年の公演では粟根まことが演じている。粟根の怪しくも格好いい見事な演技は話題になり、彼の役者としてのキャリアを大きく前進させた。

そうした役だから、これを誰が演じるか、大いに興味があった。まさか女の役になるとは思っていなかったから水野が出てきた時にはびっくりである。しかし、これは良かった。怪しさ、格好よさに色気が加わって、強烈なキャラクターができあがった。水野はセリフ回しや身のこなしにも迫力があり、大いに舞台ばえする。今後、彼女の舞台には注目していきたい。もちろん「もっと女の子っぽい美紀ちゃんが観たい…」と嘆く人もいるだろう。その気持ちはとってもよく分かるけど、これほどの実力を見せてくれた以上、今回は納得するしかないですよ。坂井真紀も、佐藤仁美もほんとうにいい演技をしていたのだが、水野に持って行かれてしまった感がある。

いやらしさと生真面目さ、インチキ臭さと誠実さが同居する「当たり役」を演じた古田は、この役に対する情熱が薄れているのか、あるいはどう新しい側面を見せるべきかを悩んでいるのか、迷いの感じられる遠慮がちな動きも垣間見えた。しかしもはやその存在感は圧倒的だ。もっと余裕しゃくしゃくで、ふてぶてしく演じてもいいのではないか。そこが古田の、役者としての生真面目さ、誠実さなのだろうが、困ったことにファンはどちらかというと、いやらしさ、インチキ臭さを期待しているのである。もちろん自分も。

ひとつ残念なことに、個人的にもっとも期待していた山本亨が、今ひとつ存在感を発揮できていなかった。敵軍の強力な剣士という役どころだが、右近健一が演じる悪役と、位置づけがかぶってしまったからだと思う。「蒲田行進曲・銀ちゃんが逝く」で意味もなく槍を振り回していた、あの暴れっぷりをこの作品で見たかった。

さて、今回の「髑髏城」、97年と比べてどうなのか。基本的に演劇を前回公演と比べる、というのは意味がないと考えているが、「ベストワーク」と言われていたものを越えたかどうか、考えてみる価値はある。

自分は、これは越えていないと思う。

決して今回の出来が悪かったわけではない。少なくとも現時点で今年のベストプレイだし、こんなに楽しい時間を過ごさせてくれた舞台はざらにはない。

ストーリーやセリフも、より洗練されており、それを力のある俳優がしっかりと受け止めて演技をしている。作品としては、文句はない。

しかし、観劇中の手応えというか、伝わってくる勢いのようなものが、だいぶ後退しているのだ。

これは何の違いかというと、ひとことで言って劇場の大きさの違いである。前回はサンシャイン劇場という、新感線の東京ホームグラウンドのような中規模劇場だった。

99年に青山劇場で「西遊記」を上演してから、新感線は大劇場での商業演劇に乗り出した。しかしどうも、いくつか観た大劇場での公演では、一様に「迫力不足」を感じるのである。

大劇場に乗り込むことは何の問題もない。むしろ、「小劇場系の劇団」という言葉に卑屈さを感じている自分としては、がんがんでかい劇場に打って出てほしいと思う。しかし、やはり小さな劇場で、至近距離から大音響や下ネタ、ミニスカートという「飛び道具」で攻撃することにより発揮される、新感線ならではの密度の濃いオーラを、大きな劇場で感じさせる手法がまだ確立されていないのではないか。

それを検証するために、厚生年金会館にも行く予定だったのだが、それはやむを得ない事情、不可抗力でキャンセルした。申し訳ない。

もっとも、こうした課題がある、ということは、まだ成長の余地があるということだ。もはや円熟期に入ったとも言われる新感線だが、まだフロンティアは残されている。止まることなく、走り続けてほしい。一生ついていきますぜ。

秋には、染五郎版が登場する。

aka

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2004年6月 6日 (日)

佐藤江梨子「キューティーハニー」(ばれるわよ)

こりゃまたケッコー! な映画であ