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2013年9月28日 (土)

連続テレビ小説「あまちゃん」終了

「あまちゃん」が終わった。ここまで人気だと、いや俺はそんなでもないね、とカッコつけたくなるところだが、到底そんなことはできない。これは21世紀になって作られたドラマの中で、最高の出来なんじゃないか。

みんながこのドラマを語り、分析し、論評している。だから今更かもしれないけど、一応ブロガーとして、ひとこと呟いておこう。

「あまちゃん」の魅力は多すぎて、とてもその全てを挙げることはできない。宮藤官九郎のスゴさに的をしぼっても、その数はそんなに減らない。なので2点だけ。

 

まず一点目は脚本のダイナミックな構成だ。「ホンモノ」と「ニセモノ」の2つの世界観を立体的に交錯させている。

この作品には多くのニセモノが登場する。海に潜れないアキの代わりにウニをとる安部ちゃん。歌えない鈴鹿ひろ美の代わりに歌う春子。夏ばっぱの言うように「サービス業」であり漁業ではない観光海女。東京出身なのに訛っているアキ。「いい母親」を演じようとしているユイの母。東京に詳しい(つもりの)ユイ。存在自体にニセモノ感あふれる荒巻太一。数えあげたらキリがない。

こうしたニセモノたちの競演の中で、ホンモノ(と思われる)家族の愛情や、信頼関係といったものが、翻弄され続けていく。それが前半の展開だった。

ここで注目すべきは、ドラマの中でニセモノの中のホンモノが描かれていくだけではなく、ドラマ自体がリアルな世界とリンクすることによって、ニセモノ化していることである。視聴者は、ホンモノの世界の中でニセモノを見ており、その見ている先でニセモノにホンモノが圧倒されているのだ。

さらに言えば、ホンモノのアイドルだった人がニセモノの世界でアイドルを演じているが、そもそもアイドルってニセモノなんじゃないか、というかなりこんがらがったマトリョーシカな構造も用意されているが、混乱するからここでは脇に置く。

そして終盤が近づくにつれ、ホンモノとニセモノの立場は次第に逆転していく。登場人物はそれぞれに、ニセモノを捨て、ホンモノに向かおうとし始める。

その逆転が決定的になる瞬間はどこだったか。それは「おらのばっぱ、恋の珍道中」の週だ。この週は、どこか他の週と比べ、異なる印象を受けた人も多いのではないか。あのエピソードは、このダイナミックな構成を完成させるために必要な「特異点」だったのだろうと自分は見ている。

その象徴的な画面がこれだ。
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ホンモノとニセモノが交差した瞬間である。この瞬間、ホンモノの橋幸夫はニセモノになり、ニセモノの世界でホンモノを見抜くことになる。その状況を発生させるために、ずっと北三陸から出たことがなかった夏ばっぱが、初めて東京に出るという特別なイベントによって熱量を高める必要があったのだ。そのエネルギーによって、2つの世界観のバランスは逆転し、さらにはドラマの内と外という垣根も崩れてしまう。

じゃあ福田萌やさかなクンもご本人が登場しているじゃないかという声もあるだろう。それに対し無理にこじつけるとするならば、福田萌の登場はドラマの中のニセモノが、ホンモノの現実世界とリンクしていることを示したもので、さかなクンはニセモノとホンモノの世界を超越し、自由に行き来できる次元トラベラーとして存在している。さかなクンは、キャラを作っているわけではなく、普段からあの調子であることが知られている。これは、実際に一緒に仕事をした人から聞いたから間違いない。そういうさかなクンにとって、ホンモノかニセモノかは全く意味をなさないのだ。

「恋の珍道中」の翌週が「おらたちの大逆転」。太巻は改心(?)してアキを主役に起用。ホンモノ優勢の流れが決定的になって東京編は終わる。そして再び舞台は北三陸へ。そこには圧倒的なホンモノ(自然)を前に、ニセモノの力で懸命に生きようとする人々の姿が描かれる。ここへきて、ホンモノとニセモノ、どちらが正しいのかという議論の余地はなくなり、完全に両者は等価のものとして相対化される。だから、これまで「落武者(≒影武者)」とネガティブに表現されていたニセモノが「あまちゃん」という表現に変わる。

そもそも宮藤官九郎の脚本の持ち味は、世の中のあらゆる現象を一歩引いて見たようなドライさだ。そこには優劣を競うべき価値はなく、すべてが相対的に描かれる。「生」「死」までを含めて。

 

二点目は、そこに関係してくる。震災の描き方だ。

このドラマが震災を描くことは最初から分かっていた。だから、どんなに楽しくても、能年玲奈が可愛くても、のめりこみ過ぎないようにセーブをかけている自分がいた。

上に述べたように、宮藤官九郎は生も死も現象としてしか捉えない。つまり、死を描くときに、それを「特別なもの」という包装紙に包むことなく、そのまんまで提示する。だから、宮藤作品は常に血なまぐさい「死の香り」が漂う。

その宮藤官九郎が震災を描く。正直、恐怖だった。終盤、どんなにショッキングな展開が待ち構えているのか、想像だにできなかったし、想像もしたくなかった。それを考えると、「リアス」のにぎやかなやりとりを見ていても、この中の誰かは「死ぬため」に創られたキャラクターなのでは、という目で見てしまう。

だが、結果的に、誰も「死ぬため」に生きてはいなかった。その代わり、観光協会のジオラマが、実は「壊されるため」に用意されていたのだと知った。

この震災の描き方に関しては、批判もあるようだ。宮藤官九郎なら恐れずにもっと深いところまで入り込んで描けたのではないか、日和ったのではないか、という気持ちからだろう。それも分からないではない。

しかし、果たしてそれが可能だっただろうか?震災で家族を失った人の気持ちを、震災から2年しか経過していない今日、納得のいく形でドラマとして描けるだろうか?

真相は分からない。しかし、自分はこれで良かったと考えている。確かに被災地の現実は描けなかったかもしれない。だが、被災地ではないところにいた人の現実を、あまりにもリアルに描き出していた。揺れが収まったときのアキの「じぇじぇ!明日お披露目ライブなのに」という、場違いな心の声。テレビのニュースを見ながら、それをどう解釈していいのか分からず混乱しているアメ女やGMTのメンバー。すべて、「あの日」に起こった現実だ。

震災の記憶を風化させないように、忘れないように、というのはみんなが心がけていることだ。そのために被災地を訪問したり、被災した人の話を直接あるいはメディアを通じて聞いたりする人も多い。もちろんそれらは価値のある行動だ。しかし、それは多くの人にとって「忘れない」ためのものではなく、「新たに知る」ためのものだ。

このドラマを見て、震災当日、自分が何を考え、どう行動したのか思い出した人も多かったと思う。これが「忘れない」ことだ。

当日だけではない。ネットでも話題になっている「潮騒のメモリー」歌詞に込められたいくつもの仕掛け。「寄せては返す 波のように」という歌詞が問題になって、CDは宣伝もされることなくひっそりと売られることになる。

カンのいい人なら、この歌が最初に流れたとき、これが震災にからんでくるのだと予測できただろう。しかし自分はそんなことは考えもしなかった。だからドラマの中で、歌詞が問題で映画が中止になる、という状況に、滑稽ささえ感じた。

ところが震災直後、多くの映画やドラマが公開延期になったり放送中止になったりしている。もし、自分もあの曲を震災の3カ月後ぐらいに聞いたとしたら「あ、これはマズいんじゃないか」と感じたに違いないのだ。もう、自分は震災直後の感覚を完全に「忘れて」いるのである。

被災地以外で起きた現実を、これほどリアルに描いたドラマは初めてなのではないか。そう考えれば、震災を描いたドラマとしても、やはり「あまちゃん」は特筆すべき存在である。

確かに被災地の人が本音を語るシーンは少なかったかもしれない。しかし、自分は鈴鹿ひろ美の問いかけに夏ばっぱが答えたこの一言だけで、十分に胸に響いた。

「歌っても歌わなくても、津波の事は、頭から離れませんから。どうぞ、お構いねぐ」。

このシーンを見て、「ちゅらさん」のあるシーンを思い出した。それは、一風館で管理人のみづえさんとおばぁが2人で語り合うシーンだ。ぜひ沖縄に遊びに来いと誘うおばぁに、みづえさんは「戦争のことを思うと、気軽に遊びには行けない気がして」と語る。するとおばぁは「みづえさんのような人に、沖縄に来てほしいわけさ」と返す。短いシーンだが、ちゅらさんの中で最も印象に残っている場面だ。

20世紀に制作されたNHKのドラマで沖縄を描くときには、必ずといっていいほど戦争の記憶が深く陰を落としてきた。21世紀になって制作されたこのドラマは、NHKにとっては異例とも言える「戦争を描かない」沖縄の物語だった。そこに、1シーンだけ挿入された戦争の記憶。だから余計に重く感じられたのかもしれない。

また過去の朝の連続テレビ小説でも、悲痛な出来事はいくつも描かれてきた。「鳩子の海」では原爆投下、「純情きらり」では東京大空襲、「甘辛しゃん」では阪神・淡路大震災。他にもたくさんある。だが、いずれもそうした出来事を時間をかけて描くよりも、その経験をしたヒロインの生きざまを描いてきたのはすべてに共通している。

ここに思い至り、宮藤官九郎は、あくまで朝の連続テレビ小説のフォーマットの枠内で、「あまちゃん」を書き上げていることに気付く。確かにNHKにあるまじき小ネタのオンパレードなど、一見破壊的に見える作品だが、ヒロインの成長、周囲の人々との心の交流、親子の愛情、日本の行く末など、この枠に必要な要素はすべて踏まえているのである。

「結局普通の朝ドラだった」と批判している人のコメントをどこかで見た。確かにそうだ。だからこそ、スゴいのである。

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まあでも、一番印象に残ったのは、オーディションでアキに負けた小野寺ちゃんの表情だったよね。

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コメント

1話も欠かさずあまちゃんを楽しみましたが、見終わってプログを読ませてもらったら、なるほど~と、深くうなずきました。これほどまでに観察されたコラムはないです。素晴らしいです! 僕は見ていて、薬師丸ひろ子があまりにはまり役で、脚本が後半薬師丸ひろ子がらみで変わっていったんだろうな・・と思って見ていました。鈴鹿ひろみが歌いだした瞬間、号泣。これぞミュージカルだって思いました。最近、歌いだしでこれほど泣けるミュージカルは見ていません。 あまちゃん あっぱれ!

投稿: マイク | 2013年10月 1日 (火) 11時00分

マイクさんこんにちは。

鈴鹿ひろ美が脚本を変えて言ったというご指摘はとても鋭いと思います。
あのリサイタルのシーン、実際にあの場で歌った声を収録したのだと聞いて驚き、そしてさらに感動しました。終盤はほとんど鈴鹿ひろ美の物語になってしまいそうな勢いでしたね!

投稿: ヤボオ | 2013年10月 1日 (火) 22時16分

こんにちは。もともとは四季の記事目当てで拝読させていただいておりましたが、もうこの頃はネタはなんであれ、ヤボオさんのブログそのものが楽しみで、読むたびにほぉ〜っと感嘆のため息をついております。「あまちゃん」ネタ、待ってました!
自分の今年前期は映画「レミゼ」に、中期は「あまちゃん」に尽きるのですが、2作品とも、私が「もうほんっとよかったんだよ〜」とただ漠然と感動したもののうまく表現できずにいたツボが明確に書いてくださってあり、ただただ感激です。
ただ、ネットや雑誌での盛り上がりに対して、
自分の身近にあまちゃんを見た人があまりいないのがショックでした。
こんなにも素晴らしい、こんなにも愛すべき作品なのに
その魅力は来週放送の総集編を見ても到底全部伝わるとは思えず、
とは言えお金を出して156回分オンデマンドで見てね、とも軽々しく言えず、歯がゆい思いをしています。Blu-rayを買って貸せばいいのだろうか…?いやー、悩ましいです。
長々とすみませんでした。これからもブログを楽しみにしております。

投稿: おもち | 2013年10月 9日 (水) 17時29分

おもちさんこんにちは。

たぶん今の時点で見ていなかった人は、これから見ても興味を持たれない方だと思うので、無理に見せないほうがいいのではないでしょうか。

投稿: ヤボオ | 2013年10月11日 (金) 22時27分

本当におっしゃるとおりですね。ちょっとはしゃぎすぎてお恥ずかしいです。お返事ありがとうございました。

投稿: おもち | 2013年10月12日 (土) 05時52分

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