三谷幸喜 作・演出「TALK LIKE SINGING」
ターロウ | 香取 慎吾 |
ダイソン | 川平 慈英 |
ニモイ | 堀内 敬子 |
ブラザー | 新納 慎也 |
昨年11月にニューヨークでの初演を果たした、三谷幸喜の新作ミュージカル「TALK LIKE SINGING」。その凱旋公演という触れ込みの東京公演は1月半にも及ぶ長い期間なので、いずれ見ようと思っているうちに千秋楽が近づいてしまい、慌ててチケットを確保し赤坂ACTシアターへ。
「歌うようにしか話せない」特異な体質を持つ青年をめぐり、精神科医と言語学者が奮闘する騒動のてんまつを描く、ミュージカル・コメディー。音楽をピチカート・ファイヴの小西康陽が担当している。
この作品はかなり実験的な要素が強い。日本語の分らないニューヨークの人たちに、日本語のミュージカルを見せて感動させる、という実験だ。だから、この日本公演の持つ意味は、その実験内容を日本人に報告する、というものである。普通に「演劇を楽しむ」という姿勢とは異なる、より客観的に、冷静に見守ることが要求される。そもそもオフ・ブロードウェーの小さな劇場で観ることを前提に設計されているから、そこも脳内補正が必要だ。
そしてこの実験が、そのまま舞台のテーマにもつながっている。人間にとって「言葉」とは何か。そして「言葉」の本質的な限界をどう乗り越えるか。1幕2時間のみのライトなコメディーの中に、そんな深淵にして壮大なテーマが流れている。ミュージカル、という手法はそのテーマを表現するために必要だから採用されただけのようにすら見えた。
英語と日本語がごちゃまぜになって進行するのも、このテーマを掘り下げるための実験のひとつだ。オペラやミュージカルの来日公演で活躍する「字幕ボード」のパロディーも。
今回、三谷の力のかなりの部分はそれら実験的な手法に注がれており、彼の脚本の緻密な構造で魅了するという持ち味に期待して観劇するとやや肩透かしを食らう可能性が高い。いや、ひょっとしたらより高度な見方をすれば、その緻密さに圧倒されるのかもしれないが、自分ぐらいの素人レベルでは、それを読み解くことはできなかった。
こういう、明確な意図をもって作られた舞台は、その意図を理解しないとなかなか評価を得にくい。三谷でいえば、「恐れを知らぬ川上音二郎一座」がそうだった。あれは「大衆演劇とは何かを問う」という意図をもって作られていたのだ。
だから、この作品も評価としてはあまり芳しいものにはならないかもしれない。しかし、自分は三谷幸喜の、人気作家になってなおこういうあくなきチャレンジを続けるその姿勢に、大いに敬意を表したいと思う。
あくまで個人的な感想を言えば、もう堀内敬子に尽きる。俺が堀内敬子をどれだけ好きかということについては、このブログでさんざん述べてきたのでくどくど書かないが、ベルもマコもジェリーロラムも、木村花代が出てくるまでは彼女以外に考えられなかったほどである。その堀内敬子の歌が存分に、とまではいかないが、かなり堪能できるのがまず嬉しい。ソロもある。本当に嬉しい。また、彼女の役どころは「歌」を決して歌おうとしない言語学者。ミュージカル女優としてトップクラスの実力を持つ彼女が、そういう役を演じるというのも、作品のテーマに通じるものがある。
三谷に見いだされて以降、舞台女優として、コメディエンヌとして、ますます活躍の幅を広げているのも、ファンとしては嬉しい限りだが、それでもなお、やはり彼女が立つべき舞台はここではない、と思っているのも事実だ。郷愁だと言われてもいい。やはり堀内敬子にはグランドミュージカルに戻ってほしい。四季では坂本里咲や五東由衣がベルを演じているのだ。まだまだ役は豊富にある。エビータも見たい。グリンダも諦めてはいない。時間がたったら、ドナやロージーでも見たい。四季に戻らなくたって、ファンティーヌという手もあるだろう。
とにもかくにも、日本の新作をニューヨークで初演する、という野心的な試みを成功させたスタッフ・キャストの皆さんには、心から称賛の拍手を送りたい。いま日本に一番欠けている元気が、劇場にはあるのだということをこれからも示していってほしいと切に願う。
「TALK LIKE SINGING」公式サイト
http://www.tls2010.jp/
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