映画版「ひぐらしのなく頃に」公開初日舞台あいさつ
「ひぐらしのなく頃に」実写版がやっと公開になるというので、池袋シネマサンシャインに初日の舞台あいさつを見学に行った。
自分は、「ひぐらし」のコアなファンではない。原点となったゲームは主要八編のうち「鬼隠し編」をプレーしただけで、マンガ・アニメ化されたものには手をつけていない。だからそもそもこの作品の全体を語る資格はないし、多くのファンから熱狂的な支持を受けている作品だけに、軽率に語ることは許されない。さらに言うと、自分がこのゲームをプレーしたのは昨年のことで、現代日本の誇る批評家、東浩紀氏が「ゲーム的リアリズムの誕生(動物化するポストモダン2)」の中でこの作品について触れていたのがきっかけだった。そこで美しい分析がなされているので、自分なりに考察してみよう、という気にもあまりならないのだ。
あえて単純な感想だけを言えば、大いに楽しいコンテンツだった。全く選択肢のないサウンドノベル、というのも画期的だが、やはりその世界観は魅力的である。主人公と4人の美少女の他愛のない日常を描く、というPCゲームの王道な展開を全体の6~7割で見せ、終盤いっきにホラー的な展開となって惨劇が繰り広げられる。自分にとっては、どちらかというと前半のどうでもいい6~7割がツボにはまった。それが、子供のころの「夏」の心理状態をリアルに思い出させてくれるものだったからだ。
子供のころの夏の思い出、というと、プールに花火に山登り…と楽しいことばかり出てくるが、実際に子供の時分、どういう心理状態だったかを考えると、必ずしもうきうきしてばかりはいなかった、というよりも「不安」「恐怖」が常に同居していたと思う。それには多くの理由がある。まず、言葉を聞くだけでわくわくする「夏休み」という単語は、常に「いつか終わる」という絶望的な響きを伴っている。そして、日本の夏は死について考える機会が多い。お盆はその最たるものだが、8月になると戦争に関する特集番組やドラマの放送が増えることも影響している。肝試しのイベントがあったり、お化け屋敷に行ったり、怪談を聞いたりするのも主に夏だ。目の前にあるのは楽しいことばかりなのに、いつもなんらかの不安の影が心の中には広がっていた。
このゲームの前半部分をプレイしていると、まさにそんな気持ちが味わえる。プロローグ部分で、バッドエンドを象徴するテキストを読まされているため、美しい女性4人に囲まれているという現実にはあり得ない楽しいシチュエーションに浸りながらも、それがいつ惨劇に転じるのか、不安は常に存在する。楽しさと、不安とのバランスがまさに少年期の「夏」なのである。そこにかぶさるひぐらしの鳴き声。田舎育ちの自分にとって、ひぐらしの声は夏の心理状態を発動するトリガーとして十分すぎる。ひぐらしはセミなので実は朝にも鳴くのだが、その大合唱で飛び起きることもあったぐらいだ。
というわけで、メディアミックスで大ヒットした要因についてはあまり理解できていないのだが、少なくとも自分にとってこの作品は好感の持てるものだった。
その程度のファンなのになぜ舞台挨拶にまで行ったのか。それはもちろん、AKB48チームKの小野恵令奈が出演しているからである。結局それかよ。
舞台あいさつは上映後ということで、まず本編を鑑賞。おそらく、思い入れのあるコアなファンにとっては、まず実写映像化ということ自体、なかなか受け入れにくいだろう。サウンドノベルは、読者の想像力によって完結するコンテンツであり、ファンが100万人いれば100万通りの「ひぐらしのなく頃に」が存在しているのだから。すべての人が納得できるビジュアライズなど、到底不可能だ。
だが、ファンと名乗ることすらおこがましいレベルのライトファンで、かつ一般的に原作の映像化に寛大な姿勢を持っている自分としては、この映画もまた好ましいものだった。原作から受ける印象を、あまりいじりまわさずに、素直に映像化していると感じた。当初は8編全体をダイジェスト化したようなストーリーも考えていたのだそうだが、結局ほぼ「鬼隠し編」のみにしぼったことは正解だったと思う。それによって、前半のほのぼのとした日常生活や、美しいながらもどこかもの悲しさを漂わせる「雛見沢村」の風景に、ある程度の時間を割くことができた。個人的には、もっとそれらを強調してもよかったと感じたが、そこは好みの問題だ。怖いだけの映画ではなく、学生時代の日常をみずみずしいタッチで描いた、高校生映画(たとえば「ウォーターボーイズ」とか「スウィングガールズ」とか、最近で言えば夏帆の「うた魂」とか、ひと昔前で言えば大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」みたいな、やや現実的でないサワヤカな映画。自分が結構好きなジャンルだ)のテイストをきちっと踏まえているところがいい。
ゲームをプレーしたとき、大いに震撼させてくれたレナの「嘘だッ」は、映画版でも重要なポイントとして使われているが、演出が過剰すぎて満員の客席から笑い声も漏れていた。
キャスティングも、最初は「あれ、魅音よりレナのほうが身長高いじゃん」とかいろいろ違和感があったが、見ているうちに気にならなくなってくるのは演出の勝利が、役者の努力か。ただ構成の都合上、沙都子と梨花は大幅に出番が削れられている。梨花にはまだ綿流しの儀式があるからいいが、沙都子はえれぴょんが演じてなければほとんど空気だ。だいたいセリフも最初の「私じゃありません」以外何かあったっけ?しかしえれの存在感は強く、立っているだけで絵になる。だからこそ、この役に起用したのか。
上映後に、お待ちかねの舞台あいさつ。主要キャストと監督、原作者が並び順にあいさつ。みな緊張のせいかたどたどしいあいさつで、いちばんはきはきと答えていたのが原作者の竜騎士07だった。小野も、AKBの舞台では人をくったように余裕の表情だが、いつもと勝手が違うのかやや緊張モード。途中で言葉につまって周りのメンバー、いや出演者に助けを求めたのは確信犯かもしれないが。簡単なあいさつと、学校シーンの撮影で、現地の子供たちと友達になったというえらくほのぼのとしたエピソードを披露していた。
この舞台あいさつを観ながら、何かに似ているなあ、と感じていたが、思い出した。「鬼隠し編」をプレーしたとき、本編シナリオ終了後に「お疲れ様会」として、ゲーム中に登場したキャラクターが「俳優」という設定で登場し、ストーリーやそこに秘められた謎などについてあれこれと意見を交わす、というおまけシナリオがあったのだ。本編の最後は超バッドエンドなので、あのお疲れ様会でだいぶ気持ちが救われた記憶がある。まさにこの舞台あいさつは、「お疲れ様会」の役目を果たしてくれた。
「ひぐらしのなく頃に」映画WEBサイト
http://www.higurashi-movie.com/
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