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2006年7月 5日 (水)

「DEATH NOTE」完結(ばれます。注意)

「DEATH NOTE」の最終巻(12巻)が4日に発売された。もう少年ジャンプでの連載はとうに終わっているが、この作品には非少年の読者も多く、コミックスで読んでいるオトナに遠慮して、ラストのネタばらしはネット上でもあまり行われていなかった。おかげで事前に終わり方を知ることなく、最終巻まで読むことができた。

あの終わり方には、いろいろ意見もあるだろう。それはどんな終わり方をしてもそうだ。だからそれについて四の五のとは言わない。

展開については、やはり8巻以降が長かった、という気はする。それは作者もそう感じているかもしれない。しかし、だからといって7巻で終われば良かったとか、Lを退場させる必要はなかったとか、そう言うつもりもない。あのまま月とLが、さながら山岡士郎と海原雄山の確執のように延々と頭脳戦を繰り広げたらどうだったか? それはそれで面白いが、その場合このマンガはきちんとした結末を迎えることなく、ある日突然、あるいはひっそりと終わることになっただろう。そしてLの退場。これは「銀河英雄伝説」におけるヤン・ウェンリーの退場と同じで、やはり物語を完結させるためには必要だったのだと思う。まがりなりにも、月の理想の新世界は現実となった。それを描かずに終わったのでは、作品として薄っぺらいものになってしまう。批判は覚悟で、このマンガを「作品」とすることを貫いた作者には敬意を表したい。

おかげで、「DEATH NOTE」は、21世紀最初の歴史に残る作品となった。「ガラスの仮面」「野望の王国」「BANANA FISH」と肩を並べる、「巻を置くことあたわず」の傑作である。

このラストは唐突のようにも思えるが、ある意味で非常に丁寧な終わり方とも言える。恐らく読者のほとんどが忘れていたであろう、「キラは善か、悪か」という命題を持ち出して、それに答えているのだから。作者が出した答えは、死神・リュークを通じて語られることになった。善も、悪もない――所詮は人間同士のこと。一段上から、冷めた視線で見たとき、月の夢見た新世界も、ニアの言う正義も、さほど大きな違いはなく、同じように真実味があり、同じようにインチキくさく感じられる。それが作者が示した答えだった。

だが、その「死神の目線」は、そのまま、読者の視線でもある。最初にこのマンガを読んだとき、誰もが少なからず月の行動に、Lのやり方に、疑問を感じたのではないか?しかしいつの間にかそんなことは忘れ、プレーヤー同士の戦いを何の思い入れもなく楽しむようになっている。そう、いつしか読者が死神の目を手に入れてしまっているのだ。

恐らく、それはこのマンガの読者だけに止まらず、現代人、あるいは昔も今もない、全ての人間がそうなのかもしれない。そう考えると、この結末はあまりに荒涼としており、そして悲しい。

だが、その荒涼とした風景の中に、ひとつだけ温かなものがある。それもまた、リュークを通じて表現されている。リュークが最後にとった行動は、明らかに月への思いを示すものだ。それは優しさとも、友情とも少し違う、いわば「共感」から生まれた行動である。そして、その行動の結果、月は望み通り「神」となることができたのだ。

この世はつまらないかもしれない。残酷で、理不尽で、生きるに値しないものかもしれない。しかしそんな中でも、「神になる」という、実につつましやかな希望を叶えることができた者がいる。そしてリュークだけではなく、それを助けた者たちがいる。彼らを描いた物語、それがDEATH NOTEという作品だ。

ラストの1コマ。「死神の目」であるはずのミサミサの瞳の、何と澄んで、美しいことか。そこに作者がともしたひとつの光明、人間に対する、ほんのわずかな希望を見て取ることができないだろうか。

素晴らしい作品に、感謝。

Dn12_1

ところで、ホントに大場つぐみってガモウひろしなのか?

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» デスノート完結巻:なんじゃこりゃあ [ひとめぼれ日記]
最初に言っときます。ものすごく批判的です。 読み終わって、正直怒りを覚えるほどの [続きを読む]

受信: 2006年7月13日 (木) 15時59分

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