山崎貴「ALWAYS 三丁目の夕日」(ばれます)
堀北真希見たさに映画館に足を運ぶ。「ジュブナイル」「リターナー」などを監督し、東宝・円谷プロ系とも、樋口真嗣らのグループとも違う、独自の特撮映画監督として名を馳せている山崎貴が、VFXによる昭和30年代の再現に挑んだのが「ALWAYS 三丁目の夕日」だ。
「少林サッカー」を観たとき、ハリウッド映画ではもっぱらスペクタクルの演出に使われるCGが、香港映画では馬鹿馬鹿しさを増幅するための演出に使われていたのに衝撃を受けた。同じ映像技術でも、使い方は無限にあるものだ。では日本映画なら、これを何に使えるだろう?とも考えた。
その疑問に対するひとつの答えが、この映画だ。そう遠くない過去の、限られた時間の中にしか存在しなかった町並みをCGで再現する、というのは、都市の様変わりが急速に起こる日本では不可欠の手法になるかもしれない。
今回、その技術は見事に目的を達成していた。路面電車が行き交う表通りのシーンなどは、どう見ても巨大なオープンセットだが、実際にはCGで合成されたものだという。
CGだけでなく、ミニチュアやモーションコントロールカメラを使った合成など、多くの技術を巧みに組み合わせて次々に展開する映像には力がある。2時間13分という長編だが、全く飽きさせないのはこの映像の力によるところが大きい。CGや合成は人工的な感じがして嫌い、という人も多いだろうが、この監督には素材をそのまま出すのではなく、あえて一手間加えることでうまさを創造すようとする、江戸前寿司職人の心意気を感じる。ぜひ食わず嫌いにならずに味わってみてほしい。
脚本や演出はやや平凡という気もするが、監督の「キャスティングができた時点で、今回の演出の仕事はある程度終わり」という言葉どおり、堤真一や薬師丸ひろ子、三浦友和といった主役をはじめ、芸達者な役者をきら星のごとく顔をそろえ、見事な演技を披露しているため、あのぐらいでちょうど良かったのかもしれない。
西岸良平の原作とはだいぶキャラクターなどの設定を変えているが、あのマンガが持つ世界観は、うまく伝えていたように思う。それは、単に町並みのことだけではない。マンガ「三町目の夕日」は、懐かしさの中に、どこか悲しさ、さびしさを漂わせているのがポイントだ。
この映画のラストシーンも、実に美しく、そして悲しい。竜之介(吉岡秀隆)は、またヒロミ(小雪)の作ったカレーを食べられるさ、と淳之介に明るく言うが、その内心ではもうヒロミとは会えないのだ、と知っている。完成した東京タワーごしに夕日を眺めて、まだ小学生の一平は「50年先だって夕日はずっときれいだよ」と言うが、その父親(堤真一)は、これから東京は空を失っていくのだと予期している。
監督は「まず、団塊の世代の人に懐かしい、と思ってもらうことをクリアしなければ、この映画は成立しない」と語っている。その言葉は読み方を変えれば「懐かしさだけの映画ではない」という意味にもとれる。その懐かしさの先に何を感じさせるか、がこの映画の真価であることを忘れてはいけないだろう。そうした視点から言っても、なかなかの秀作である。
ALWAYS 三丁目の夕日のWEBサイト
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コメント
なにか無理矢理大作めいたおおげさな演出演技に感じられる、映像はすばらしいのに、もっと時間の間という空気感を漂わせてほしいもの。たとえば小津安次郎監督のような、西岸さんの素朴で味のある世界を伝えてほしいと思うのは31年生まれの私ぐらいだけだろうか。
投稿: じゃぽーね | 2006年6月29日 (木) 15時36分
こんにちは。確かに、空気感という意味ではもの足りないかもしれません。どうもキレイに作られすぎて、思い出の中で美化されてしまった過去、という感じになっていました。
美化されずに残っている、どこか煤けた部分が原作のマンガには残っています。この映画の監督も、それは分かっていると思いますが、なかなかそれを画面に描き出すのは難しいですよね。
投稿: ヤボオ | 2006年6月30日 (金) 00時02分