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2005年8月28日 (日)

みそしれる歌舞の会「永遠の王国」

昨年に引き続き、千葉県を本拠地として活動しているミュージカル劇団「みそしれる歌舞の会」の本公演を観に行く。

美しく優しい女王が君臨し、勇敢な騎士に護られた「永遠の王国」。そこで人々は苦しみも悩みもなく、ただただ平和に暮らしていた。ある日、王国の近くで1人の旅人が助けられる。フィーネと名乗るその少女は、たちまち女王の心をとらえ、大切な友人となるが、その存在はやがて王国に大きな災いをもたらす。さらにその災いは、王国に隠された重大な秘密を暴くことになり……。

一幕は、「ここは常春の国、マリネラか?」と言いたくなるほど、脳天気な王国の様子が淡々と描かれる。その脳天気な王国は2幕に入り思いも寄らない形で崩壊するのだが、それはさながらアナキン・スカイウォーカーが暗黒面に堕ちるように、突然で、そして劇的だ。こういう展開をさせるのは、簡単に見えて意外に難しい。ジョージ・ルーカスもエピソード3ではアナキンの転落が「あまりに唐突」と世界中で言われている。しかしこの舞台では、その存在は気付かれてもその存在する意味までは気付かれないように、周到に張り巡らされた伏線によって納得のいくものになっている。

永遠の王国とは、これまで多くの作家達が小説や映画、マンガやアニメーションといったメディアを通じて挑戦してきたモチーフである「シャングリラ(理想郷)」だ。そしてそれらの多くに共通するのは、シャングリラの秘密が解き明かされ、崩壊するときの衝撃である。なぜ衝撃を受けるかといえば、それは世界観がひっくり返るからだ。例を挙げるなら押井守の評価を決定づけた傑作「劇場版うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」がある。主人公たちが巻き込まれた、毎日同じ時間が繰り返し、自分たちに関係のない人間は消えていくという世界は、実はラムちゃんの願望が具現化したものだった。また藤子・F・不二雄の「モジャ公」に出てくる、どんな願いでも叶う「シャングリラ星」は、すべては人工的に創り出された脳波、電気信号の仕業というオチだった。今でこそありふれた設定と言われるかもしれないが、それが描かれたのが1970年と言うことを聞くと、氏が稀代のSF作家であることがうかがえる。

このように、シャングリラには崩壊と、世界観の転覆がつきものだ。そういう意味では、この「永遠の王国」もそのセオリーを踏んでいる。しかしそのセオリーを舞台で表現する、というのはなかなかに野心的な試みだ。同一の空間の中で、しかも短時間に、ひとつの世界観を構築し、それを目の前で崩壊させてみせなくてはいけないからだ。デビット・カッパーフィールド並みの大技である。しかし、この舞台では、それに奇術を用いることなく、正面から挑んで成功を収めた。まずキャラクターの相関関係を崩壊前、崩壊後の世界それぞれ緻密に描いた上できちんと対称になるように設計し、しかも世界観を横断する動きも加えるという立体的な脚本の構図が基本にある。そして各場面のセリフや演技のすべてが、全体の構成の中で何らかの関係性を保っており、ひとつとして無駄がない。そこに、音楽の連続性が加えられる。こうした積み重ねによって、複雑な構成でありながら、何の抵抗もなく、分かりやすく受け入れられる作品になった。

そして、多くのシャングリラを描いた作品が、その世界観の構築と崩壊そのものをテーマとしているのに対し、今回の作品ではその構築と崩壊の意味がテーマになっている。一億総「中の人」化しつつある今日、それが問いかけるものは軽くはない。しかしそれを説教じみたものにせず、あくまでエンターテインメントで終わらせているのも評価すべき点だろう。

カンパニーとしてのまとまり、ヒロイン2人の存在感、音楽の素晴らしさなどは期待どおり。舞台を支える技術も非常に高いレベルで、特に照明の完成度さには感銘を受けた。

昨年と比較すると、男性出演者の増加が生きたように感じる。歌声のアンサンブルにも厚みが出たし、宰相シュベール役の菊池信次氏の重厚感あふれる演技で舞台全体が引き締まった。

この舞台のラストは、おおむね大団円を迎えるが、1つだけ救われずに終わる存在がある。無理に全てをハッピーにしなかったことで味わいをより深くしているが、それが見終わった後の余韻にもつながっている。その魂は、オペラ座の怪人のように夜の調べとともに姿を消したのか。それとも、ウルトラセブン第6話「ダーク・ゾーン」に登場したペガッサ星人のように、今も暗闇とともに地球のどこかを彷徨しているのだろうか。

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「みそしれる歌舞の会」のホームページ

http://misokabu.s10.xrea.com/

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2005年8月22日 (月)

四季「マンマ・ミーア!」

当然のように、これも観てきた。

この作品は、観るたびにその完成度の高さに気付かされる。最初はばくぜんと面白かった。2回目に観て、脚本の構造的な緻密さ、一流の建築家が手がけた図面のような美しさに驚嘆した。3回目にはABBAの曲の魅力をストレートに作品の感動に結びつけるために随所に織り込まれた演出的な工夫に感心した。これは、この作品以降雨後のタケノコのように乱立し、ことごとく失敗に終わったカタログ・ミュージカルに触れて気付いたのだ。

MAMMA MIA!の初演は99年だが、21世紀最初のメガヒット・ミュージカルと言って差し支えないだろう。そう呼ぶにふさわしい傑作である。

今回の公演は、母親のドナ、娘のソフィともに初見のキャスト。ドナにはすっかり「マコのお母さん」のイメージがついてしまった早水小夜子、ソフィには2001年オーディション合格の五十嵐可絵だ。

早水ドナだが、やや無理があったか。体型のことはいい。ロンドンではもっとすごいドナを観た。問題はその歌い方である。早水は芸大卒の一流声楽家だから、もちろん歌はうまい。しかし、そのオペラのような発声法は、ABBAの曲にはとんと馴染まないのである。

優しそうな素敵なドナではあるけれど、どうも違和感がある。何か紅白歌合戦の余興でオペラ歌手が無理にポップスを歌わされているような、そんな印象だった。

五十嵐可絵はフレッシュさを全面に出した透明感がソフィ役にはうってつけだ。こういう演技には、自分はとっても弱い。歌に個性が感じられない、という意見もあるかもしれないが、素直さの表現ということにしておこう。やはり甘くなっている。

この日の「ザ・ダイナモス」、つまりかつてドナと一緒にステージに立って歌っていた2人、ターニャとロージィは前田美波里と青山弥生。恐らくこの2人は、世界最高の破壊力を持つダイナモスだと思う。ダイナモどころか、その発電量は原発クラスである。使い方を間違えれば核弾頭にもなる。日本屈指のミュージカル・スターでありながら、四季の脇役を演じ続けてくれている前田には本当に感謝だ。一方の青山は四季きっての芸達者。すさまじいほどの身長差の凸凹コンビが繰り出すギャグの電撃は、お笑いの本場・大阪にあっても観客をシビれさせている。

それに比べて、男優陣のふがいなさは何とかならないものか。確かにこの作品に出てくる男達はカッコ悪い役どころである。しかし、だからこそ弱い役者が演じれば、作品のバランスが崩れてしまう。脚本が緻密に計算されたものであるだけに、バランスが崩れやすいのだ。実力ある役者が、あえてどうにもさまにならない父親(?)を演じることで、暴走気味のドナ&ザ・ダイナモスを受け止めることができる。

この原稿を書いている時点で、ソフィに吉沢梨絵が復帰したようだ。それはもちろん観たいけれど、変えるべきキャストはそこではないだろう。

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買わなくてもいい、と思っていたが、ついふらふらとパンフレットを購入。キャスト紹介がカラーになっていたりと、なかなかの出来映え。おまけに劇中に登場する「ドナ&ザ・ダイナモス」の公演ポスターがおまけについてくる。こういうところのファンサービスは行き届いているのだから、つまらないことでファンとの間にいさかいを起こしてしまうのは本当に残念だ。

マンマ・ミーアのホームページ

http://www.shiki.gr.jp/applause/mammamia/index.html

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2005年8月17日 (水)

四季「アイーダ」

「アイーダ」は初見である。ブロードウェーの評価もいまひとつであり、四季もさほど力を入れていない(ように見える)ので、さして食指が動かなかったのだ。2000年の冬にニューヨークに行ったときも、すでにアイーダは開幕していたが、「ライオンキング」に足を向けてしまった。しかし今回の公演も千秋楽が発表され、永久に観る機会を失うかもしれない、と思いこの機会に観ることにした。

舞台は現代の博物館から始まる。そこに展示されているのは古代エジプトの遺跡。そこから一気に時間をさかのぼり、ファラオの時代でストーリーが展開していくのだ。

この始まり方は、つかこうへいの「飛龍伝」のオープニングに似ている。それで、飛龍伝のような血の吹き出るような悲痛なラブストーリーを想像したのだが、そうではなかった。基本的にオペラ「アイーダ」と同じ物語だが、アイーダ、ラダメス、アムネリスの三角関係をよりメロドラマタッチで描いており、野郎にはちょっと厳しい。特に前半のぬるい展開は、エルトン・ジョンの生暖かい音楽とあいまって、体がカユくなるシーンの連続。どうにも眠くなってくる。

後半になると、次第にテンポもよくなり、それなりに引き込まれる。残念なのは、印象に強く残る曲が少ないことか。ラストシーンには賛否両論があるだろうが、自分は賛成派である。つかこうへいの作品もそうだが、悲しい終わり方をする舞台ほど、最後にひと工夫を凝らし、観客が明日に向かって元気に歩いていけるよう配慮するものだ。

というわけで、作品としては予想どおり物足りないものだったため、興味はいきおい役者の演技に移る。四季がどんなに“作品本位”を訴えようとも、演劇とはそうしたものだ。

この日、アイーダを演じたのは井上智恵。この役は長く濱田めぐみが務めていたため、宣伝のポスターや映像などに登場するのはすべて濱田だ。それに慣れていると、出てきた瞬間「えっ」と思ってしまう。

最初に言っておくが、井上智恵という役者は好きだ。確かな歌唱力と、ガッツのある演技でファンも多い。しかし、この人の顔はあまりにも日本人顔で、外国人の役をするとどうも違和感がある。「エビータ」でもそう感じた。それに加えて、今回のメイクだ。あまりにもヘンで、笑ってしまう。これはいかがなものだろう。

まあ観ているうちに慣れてしまい、さほど気にはならなくなってきたが、こんどは「誰かに似ている」気がしてきた。誰だろう。

そうだ。

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テレビ版「がんばっていきまっしょい」のイモッチだ。

そう思うと、再び笑ってしまい正視できなくなってきた。

濱田はもともと美人だが、薄い顔なのでどんなメイクも似合う。井上の場合はそうはいかない。であれば、もっと役者にあったメイクを考えるべきではないのか。四季の場合、役者が変わっても同じようなメイク、かつらになる。しかしブロードウエーの「美女と野獣」ベルや、ウエストエンドの「マンマ・ミーア!」ソフィなどは、役者の顔だちや髪質をうまく生かしたビジュアルになっていた。この公演パンフレットに作詞家ティム・ライスのインタビューが載っているが、その中で「オペラでは出演者の容姿が役にふさわしいかどうか考えないが、それはどうかと思う」と述べている。四季は、その言葉の裏にある指摘に真摯に耳を傾けるべきだろう。

アムネリス役にはシルビア・グラブ。高嶋政宏の奥さんだ。この人の実力は折り紙つきで、また華やかな雰囲気がアムネリス役にはぴったりである。前半の弱さ、かわいらしさと、終盤の強さ、気高さの表現が対称的で、しかも自然に決まっており、素晴らしい演技だった。この公演を観る限り、完全にアムネリスの印象がアイーダを上回っていた。四季もよくこんな人材を客演で担ぎ出せたものだ。考えてみれば、四季は以前から高嶋ファミリーには接近していて、東宝ミュージカルの看板の1人である高嶋兄はともかく、高嶋政伸のほうは四季の会会報「ラ・アルプ」に登場したりしている。いずれ、兄も引っ張りこむかもしれない。ぜひライオンキングのムファサとか、マンマ・ミーア!のハリー・ブライトでも演じてほしいものだ。

今回の配役に不満があるわけではないが、やはり濱田めぐみのアイーダも観ておきたいし、四季の舞台に戻ってきた沢木順の演じるゾーザーも観たいものだ。こう考えると、やはりくだんのキャスト発表方法改悪問題に、怒りを感じざるを得ない。

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「アイーダ」のホームページ

http://www.shiki.gr.jp/applause/aida/index.html

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京都駅へ

二条城→壬生→西本願寺→京都駅とすべて徒歩で移動して、12時半になった。ちょうど、京都劇場の「アイーダ」の開場時間である。ま、お約束ということで・・・

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2005年8月16日 (火)

西本願寺

せっかくだから、新選組が八木家を出て屯所を構えた西本願寺も訪れてみる。西本願寺の敷地は巨大だが、新選組の面影を残しているのは「太鼓楼」という建物のみ。そして、新選組に関する情報が得られるのはそこに掲げられた小さな看板だけだ。

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当時、新選組は僧侶らにあまり歓迎されていなかったらしいが、それは今でも変わらないのだろうか。

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八木家

新選組が誕生した壬生の屯所、八木家は今もその原形のまま保存され、見学者を迎え入れている。ガイドさんの詳しい説明つきで、「ここが近藤勇の席」「ここに新見錦」と教えてくれるのが楽しい。今も刀傷が残る芹沢鴨が暗殺された部屋では、若い見学者に「ここに寝てみてください」と促し、「はい、この人が芹沢鴨です。こんな感じで倒れていたところを、とどめを刺されました」とビジュアルに解説していた。お茶とお菓子つきで拝観料1000円。

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なぜお菓子つきかというと、現在の八木家は和菓子店を営んでいるからだ。せっかくなので「屯所餅」を買って帰る。

八木家のホームページ
http://www.mibu-yagike.jp/index.html

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雨宿り

二条城を出ると、雨が激しくなったので近くの全日空ホテルで雨宿り。和服姿の従業員に萌えながら次にどうしようかと考える。「るるぶ」を見ていたら、新選組ゆかりの壬生の地はここからそう遠くないことが分かったので、歩いて行くことにする。

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世界遺産 二条城

瓢亭別館を出たのが8時40分。近くには南禅寺があり、哲学の道を歩けば銀閣へ。しかしこのコースは大学生のとき、生まれて初めて京都に来たときにたどっている。中学にも高校にも修学旅行がなかったので、一度京都観光をしようと思って「青春18きっぷ」でやってきたのだ。

そのときに見逃していたところを訪ねることにしよう、というわけで、ニジョー・キャッスルをガイジンさんに混じって見学することに。

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将軍の居城だから大きいと思ってはいたが、敷地の広いこと。ぐるりと周るだけで1時間以上かかる。国宝・二の丸御殿はさすがの迫力だ。やはり本物は有無を言わせない凄みがある。

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自分も御三家のひとつ、水戸の出身だから、小さいころは藩校・弘道館に見学に行ったりしたものだが、残念ながらそれは一部を除き戦後に復元されたものだ。戊辰戦争や空襲で多くの建物は消失し、水戸にはすでに城跡しかない。

自分の通っていた高校は、水戸城本丸跡に建っている。

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2005年8月14日 (日)

瓢亭別館 朝がゆ

京都らしいうまい朝ご飯が食べたい、ということで、南禅寺近くの「瓢亭」へ。ここの朝がゆは有名だ。ただ値段も高い。前日の夜に予約の電話をしたところ、茶室や離れ座敷など、個室が中心の本館はすでに一杯で、広間になっている別館なら可、とのこと。こっちは1人なので広間のほうが気楽だ。ちなみに本館だと5500円、別館だと4100円。これが何の違いかはよく分からない。

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開店と同時に入店すると、自分のほかには1組(2人)の客しかいなくて、それぞれ別の広間に通されたため、貸し切り状態。中庭の見える風情のある席だ。

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まず名物の半熟卵とひょうたん形の重ね鉢が登場。鉢を開けると、ごま和えや湯葉の炊き合わせ、もずくなど、朝にぴったりの上品な料理が並ぶ。

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続いてお椀がでてくる。豆腐のうまさをシンプルに味わう。

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そしてお粥が登場。上の容器には鰹節を煮詰めたあんが入っており、それをかけて食べる。

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実はこのお粥については、以前「美味しんぼ」で読んだことがある(コミックス21巻、「穏やかな御馳走」)。

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読んだとき、確かにうまそうだと思った記憶があるが、想像していたのとは少し違った。大量の鰹節を究極まで煮詰めたもの、と聞いたので、さぞや強烈な味かと思っていたのだが、その味は前面に出てくるようなものではなかった。あくまで風味を添える程度だ。このあんの真価は味ではなく、コクにある。そのどっしりとしたコクによって、お粥独特の、力の抜けるような物足りなさを補っているのだ。結果的に、お粥が非常に力強いメニューに変身する。

だから、最初は少しずつあんをかけていたが、思い切りかけても味のバランスは崩れない。むしろ、かければかけるほどうまいものになると思った。次に来たときは、最初からどんどんかけよう。

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うまい。しかも満足感がありながら、満腹感はない。理想的な朝食と言えるのではないだろうか。高いことを除いては。

「瓢亭」のホームページ
http://hyotei.co.jp/

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京都珈琲屋「コーヒークーラー」

出張で京都に来た。

とてつもなく暑い中で猛烈にのどが渇き、うまいコーヒーでも飲みたいと話していたところ、喫茶店の勤務経験があり、素晴らしい嗅覚を持った同僚がナイスな店を見つけた。

その名も「京都 珈琲屋」。御所や府庁にほど近いところにある小さな店だ。店頭には挽き売り用の豆が並び、その奥に若干のテーブル席がある。

今回注文したのは「コーヒークーラー」。アイスコーヒーをソーダで割り、レモンを添えた夏向きのメニューだ。

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コーヒーのソーダ、というのは、確かに珍しいが世の中に全くないわけではない。

古くは自分が小学校低学年のころ、というとざっと30年近く前だが、近所の自動販売機には「コーヒーソーダ」という飲料が売られていた。メーカー不明。どうしても味わってみたかったので、父親に購入を促し、一口もらって飲んでみた。子供ながらに鮮烈な印象だったが、意外においしい、と感じた記憶がある。その後も、まれに飲料メーカーからそうした商品は発売されている。輸入ドリンクを扱っている店に行けば、「Borgnine's Coffee Soda」なんてのを見かけることもある。

とはいえ、どれもヒット商品にはなっていないところを見ると、やはりこのメニューはキワものなんだろう。

そこでこの「コーヒークーラー」だ。どんなものかと思って味わうと、これが実にうまい。コーヒーそのものは薄めだが、豆がいいのか挽き方がいいのか入れ方がいいのか、炭酸に負けない存在感を保っている。そして上に乗ったレモンによって一層の清涼感を増す。コーヒーとソーダの組み合わせまでは経験があるが、そこにレモン、というのは初体験。コーヒー、レモン、ソーダという3つの要素が、絶妙のバランスで結合している。これはまさに芸術であろう。

このメニューは夏期限定だろうが、また行きたくなる店である。WEBサイトもあるのでそのたたずまいはこちらで参照してください。

「京都珈琲屋」のホームページ
http://www.kyoto-coffee.com

さて、出張は当然ながら日帰りの予定だが、金曜ということもあるので、そのまま自費で泊まってのんびり帰ることにした。

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2005年8月 7日 (日)

手賀沼花火大会

毎年恒例の手賀沼花火大会が、6日夜に開催された。

昨年までは、手賀沼に面している柏市、我孫子市、沼南町がそれぞれで同時に花火を打ち上げるという、自治体の財力を競うイベントだった。しかし沼南町が柏市と合併したのに伴い、打ち上げ場所は2箇所に減少。また、これまでは柏市7000、我孫子市7000、沼南町2000の合計16000発が上がっていたが、沼南町の2000がなくなり、合計で140000発という規模になった。

毎年、柏の打ち上げ会場が自分の部屋から手に取るように見えて、打ち上げ台まで肉眼で確認できるほどだったのだが、3会場から2会場になったことに伴い、この柏会場が沼の中心部へと移動し、自宅からは離れてしまった。そのため、光と音がほとんどずれない大迫力を感じることはできなくなったのは残念だ。

だがそのぶん従来はほとんど見えなかった我孫子の打ち上げ会場が柏側に寄ってくる形になったので、丘陵に隠れてしまう水中スターマインなどの低位置炸裂型の花火を除けば、14000発のほとんどを見ることができるようになった。

それにしても花火というのは毎年進化してくるものだ。今年もこれまで見たこともないようなピンクや水色といった淡い色が浮かんでいた。また、まるでチンアナゴのように水面からにょきにょきと伸びてくるものがあったりと、確実に技術革新は進んでいるようだ。

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手賀沼花火大会のホームページ

http://www.kashiwa-cci.or.jp/SOUMU/teganuma/16hanabi/160807.htm

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2005年8月 3日 (水)

劇団四季、出演予定者の公表方式を変更

この1週間あまり、劇団四季とファンとの間で大きな悶着が続いている。

顛末はこうである。7月26日、四季のホームページに下記のようなお知らせが掲載された。

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週間出演予定者公表方法変更のお知らせとお願い

 劇団四季ではこれまで、公演中の作品につき、「四季の会」会員の皆様には会報誌「ラ・アルプ」では月ごとの、またキャストフォン、FAXサービスや、当オフィシャルウェブサイトなどでは毎週初めに週間の出演予定者を各回ごとに公表いたしておりましたが、最近、稽古その他の事情により、公表後に予定の変更をしなければならないケースが多く生じるようになってまいりました。
 諸事情により、出演予定者の突然の変更があり得ることはこれまでもお知らせしてまいりましたが、この情報を目安にチケットをお求めになるお客様からは、上記のような場合にお叱りを頂戴するのも事実です。そうしたお声が増えていることを踏まえて慎重に検討した結果、お客様に混乱を招きかねない未確定の情報は、やはりお出しするべきではないと考え、8月1日(月)からは、出演予定者の公表は各回ごとではなく、週間単位でのみの公表とさせていただきます。また、出演者の最終的な確定は、従来通り開演の1時間前とさせていただきます。
なにとぞご理解、ご諒承いただけますようお願い申し上げます。

◎出演確定者の情報については、
各回開演1時間前から公演当日24時まで(昼夜2回公演がある場合は、夜公演開演の1時間前まで)、以下のテレフォンサービスにて各上演劇場ごとにお答えいたします。

【テレフォンサービス】
※サービス実施は8月1日からとなります

四季劇場[春]      045-△△△-□□□□



(以下、各劇場ごとの番号)
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これまで、四季は毎週月曜日にその週の公演全てについて、キャストを発表するという形式を取っていた。それを、週の初めに、「今週出演する予定のキャスト」という形でまとめて発表する、というのだ。

四季の場合、チケットの売り出し時にはキャストを明らかにしない。だからそれが週の最初に分かるかどうかは大きな問題ではないと思うかもしれない。だが、四季には「前日予約」というシステムがある。これは、スポンサーやメディア、政治家などにいつでもチケットを用意できるように、「売り切れ」になっている公演でも必ずある程度確保している席を、公演前日の午後2時にリリースするというものだ。「この出演者が観たい」と思う人は、これを購入するのである。

しかし「今週の出演予定者」に2人、3人と名前を書かれて、誰が出てくるかわからないのでは、キャスト目当てに前日予約をする、ということができなくなる。これは一大事、と多くのファンがネット上で反対の意思と怒りを表明した。2ちゃんねるにはこの問題についての専用スレッドが立った。劇団にもかなりの苦情が殺到した模様だ。

そして「新方式」が8月1日に導入された。すると、「今週の出演者」となってはいるものの、ほとんどの役には1人の名前しか記載されていない。従来も、実際には1人の役者がその週の公演の全てに出演する場合がほとんどだったので、これまでとあまり変わらないのでは、という感触を得た人が多く、事態は沈静化に向かっている。ただ、新方式ではメインキャスト以外の「アンサンブル」と言われる出演者は発表されていない。そのため、メインキャスト以外にも目を向けるコアなファンは、いまだに強く反対する姿勢を崩していない。

騒動の引き金を引いた「ファン軽視」

今回の騒動では、ファンの怒りが様々な形で表明されたが、そこにはいくつかの感情が入り交じっているようだ。主なものは、

1)サービス低下の理由をファンに責任転嫁するような口調での発表を含め、今回の変更はファン軽視ではないのか、という怒り。

2)最近、出演している役者の実力に首をかしげることが多いことへの不満。

3)そもそも、チケット売り出し時にキャストを発表しないのはおかしいではないか、という根本的な疑問。

の3点だ。

1)の怒りは実にもっともで、これは四季も申し開きのしようがないのではないか。上に引用したお知らせの文面は、いかにも自分たちは悪くない、苦情を言う客が悪いのだ、という姿勢がにじみ出すぎてしまっている。これはいただけない。それに苦情があるなら、その苦情の原因を何とかすべきで、苦情が多いからサービスを低下させる、というのは本末転倒もはなはだしい。そして、すぐにはにその原因が解決できないなら、納得のいく理由を説明しなくてはいけない。「電車が遅れると苦情がたくさん来るので、時刻表の公表を取りやめます」と言っているようなもので、どうにも腑に落ちない。本来なら、「電車が遅れる場合もございますが、安全第一で運転しておりますのでご了承ください」と言うべきなのである。つまり、「四季では完璧な作品を皆様にお見せするために、公演直前まで出演者の人選を行っております。そのために発表したキャストの変更も余技なくされる場合が多々ございます。これもひとえに質の高いエンターテインメントを提供するための取り組みの中で起きることであり、何卒ご了承いただきたく、ファンの皆様にはお願い申し上げます」とでも言えば良かったのだ。そうすれば、これは劇団の根本的なスタンスを理解しうるかどうか、というレベルの問題になる。そして、多くのファンはそれをある程度理解しているのだ。理解はするが、贔屓の役者でも観たい、というファンと、基本的には役者の名前でチケットを売らない建前だが、ファンの気持ちにも答えなくてはいけない劇団との妥協点が、前日予約システムなのだ。妥協ラインの一方的な変更を宣言されたら、それは怒るだろう。

しかも、当初今回の変更に対してのクレームにどう答えるか、統一見解の周知が徹底されていなかったらしい。そのため、電話に出た担当者が「どの役者がどの公演に出るかは個人情報だから発表できないのだ」などとトンチンカンなことを口走ったりして、ますます火に油を注いでしまった。

基本的に、四季の顧客対応は、高いレベルだと思っている。世の中でCRM(顧客管理)、FSP(優良顧客対応)などが言われる前から、四季ではそれを実践していた。その四季にあって、今回の一件はあまりにお粗末と言わざるを得ない。いったいどうしたというのだろうか。

2)は、以前から言われていたことだが、今回の騒動で一気に表面化してしまった。キャストが発表されなくてもファンがチケットを買うのは、それだけ四季を信頼していることの証である。それが裏切られるケースは、最近非常に多くなってきた。これには2つの原因が考えられる。

1つは、上演作品が増えてきたことである。8月第1週は、東京で「ライオンキング」「キャッツ」「オペラ座の怪人」「夢から醒めた夢」、名古屋で「ライオンキング」、京都で「アイーダ」、大阪で「マンマ・ミーア!」、福岡で「美女と野獣」。これにファミリーミュージカルと全国公演を加えると、実に10本も上演している。これだけ公演が多ければ、ひずみが出てくるのも当然だ。

もう1つは、中国や韓国出身の俳優が増加したことだ。単純に外国人だから嫌だ、というのではない。実際、キャッツに出演中の金志賢は、現在のグリザベラ役の中では最も評価が高い。同じキャッツでミストフェリーズを演じる蔡暁強は、クセのある濃いめのカオと身体的能力の高さで女性ファンが急増中。最近「オペラ座の怪人」のクリスティーヌ役に大抜擢された高木美果(チェ・ウンシル)は、可愛らしいルックスも手伝って好評のようだ。だが、どうにも受け入れられないキャストも確かに存在する。多少日本語に変なアクセントがあっても、表現が豊かであれば気にならない。しかし、日本語の歌詞を声にするだけで精一杯、という出演者を、少なくとも正規の料金を払ってチケットを買っている客に見せるべきではない。アジアの演劇文化を振興したい、という理想はいい。応援もしたい。例えば、まだ舞台に出すには少し早い、というキャストを集めて、割引料金の公演を行えばいい。かつて平日のマチネはそういう扱いだったと思う。これなら、劇団も、役者も、観客もそれぞれメリットがあり、三方一両得というものだ。

3)は、昔から繰り返されてきた議論である。「スター制度」を否定し、「作品重視」の姿勢を貫くことは、上でも述べたようにある程度の理解は得られている。そうでなければ、ここまでチケットは売れないだろう。

しかし、ひとつ言いたいのは、役者の個性を認めないことが果たして「作品重視」なのか、ということである。演劇というのは、生身の人間が演じて初めて完成する「作品」ではないのか。だとすれば、どのような役者が演じるか、興味が出てくるのも当然である。四季はキャスト発表問題が議論になるたび必ず「作品重視」を口にするが、それでは「演目重視」ではないのか。

四季崩壊への予兆か?

それにしても、今回の騒動は一体何を意味しているのだろう。よく言われているのは、ジャイアンツにおける渡辺会長のような「老害」である。浅利慶太代表が、度重なるキャスト問題の苦情を耳にして激昂し、「そんならいっそ発表をやめてしまえ」ということになった、という説である。確かに浅利代表が「たかが役者」「たかが観客」と言っている姿は容易に想像できてしまうため、実に説得力がある。

しかし、それならまだ救いがあるような気もしている。老人は、いつか去っていく。それを待っていればいい。

だが、今回の騒動は、どうもそうではないように感じる。ネットでの発表が変更の1週間前に行われたという拙速、そして苦情への対応ができていなかったことを考えると確かに「鶴の一声」に見える。しかし、同じ情報は月末に郵送で届いた四季の会会報「ラ・アルプ」にも印刷されていた。となると、この変更は急に決まったものではない。

全くの想像だが、今回の一件は制作部門とフロント部門との溝が原因ではないかと思う。

例えばメーカーなら、よい物を作ろうとする工場と、ひとつでも多く売ろうとする営業が、どうしても対立してしまう。それを調整するのが会社という機構だ。

四季においても、制作とフロントに同じような関係があるのだろう。今回の騒動は、制作側の意向がフロントを押し切ったということではないのか。フロント側にしてみれば、サービスを低下させ、ファンの心証を悪くするような変更は避けようとしたはずだ。

これまで、こうした対立を調整してきたのは、やはり浅利代表なのだろう。浅利慶太という人は、芸術家としてはいまいちだと思うのだが、芸術と商売のバランスを保つ感覚にかけては優れていると思う。今回のようなバランスを欠いた決定が出てくる、というのは、むしろその存在感が薄れ、調整能力が下がってきている、ということなのではないか。

となれば、すでに劇団四季の崩壊は始まっていることになる。早急に「次のカリスマ」を誕生させるか、そうでなければ、組織として調整能力を働かせる仕組みを作らなければ、そのスピードは加速していくことになるだろう。

 

劇団四季「週間出演予定者公表方法変更のお知らせとお願い」

http://www.shiki.gr.jp/navigation/#navi29

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